三科
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/16 17:20 UTC 版)
全ての法は、下記の五蘊の一つの蘊、十二処の一つの処、十八界の一つの界とにおさまる[2]。およそ法はそれぞれの自性を保持するものであるから、ある法がそれと別個な自性をもつ他の法の中におさまるということは決して無い[2]。諸法を五蘊、十二処、十八界と説くのは、衆生(有情)の愚かさ、あるいは資質、あるいは希求するところに3通りがあるから、それらの各々に応ずるためとされる[2]。
また、原始仏典においては、我々の全経験領域をさしてこれらを一切(梵: sarvam、我々の全経験領域)と呼ぶものの、「我がある」とは明言されず、しかもそのどれもが無常であり、苦であり、非我であり、それらを厭離し離欲すれば解脱して悟るといわれる[4]。
五蘊
五蘊(ごうん、梵: pañca-skandha) - 五陰(ごおん、旧訳)とも。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。
十二処
十二処(じゅうにしょ)または十二入(「処」は梵: āyatana) - 12の知覚を生じる場。六根、六境[5]。 後に「処」の字をつけて呼ぶこともある。「処」とは、阿毘達磨倶舎論においては、心と心作用(心所)の生じてくる門(生門(しょうもん))のこと[2]。
六根、六境(、後述の六界)の順序は、現在の法を対象とするものを先にし、四大種によって作られた色(所造色)のみを対象とする眼、耳、鼻、舌を先にし、より遠い対象に作用するものを先にし(眼、耳の順)、より速やかに明らかに作用するものを先とし(鼻、舌の順)、あるいは感覚器官の位置の高いほど先とし(眼、耳、鼻、舌の順で、身は多くの部分がこの下にあるからこれらの次とし、意はとどまる場所がないから最後となる)[17]。
十八界
十八界(じゅうはちかい、梵: aṣṭādaśa-dhātavaḥ) - 18の知覚認識の要素。六根、六境、六識。後に「界」の字を付ける[5]。「界」とは、種族、種類のこと[2]。
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- 六根、六境、六識の十八界を数え上げるのは、主観の心が客観の対象をとらえるのはそれぞれの器官を通じてである、という考えに立っている。
- 見る心(眼識)は視覚器官(眼)を通して、色・形(色)をとらえる。聴く心(耳識)は聴覚器官(耳)を通じて音(声)をとらえる、といった具合である[18]。
- ^ 阿含経のほか大乗経典でも、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経 無生品第二十六』(T0223_.08.0270c01)などにみられる。
- ^ a b c d e 櫻部 1981, p. 69.
- ^ a b 図解雑学 般若心経 2003, p. 97.
- ^ 村上 2010, p. 233~234.
- ^ a b 図解雑学 般若心経 2003, p. 96.
- ^ a b c d e f 櫻部・上山 2006, p. 60.
- ^ a b c 村上 2010, p. 233.
- ^ a b c d e f 岩波仏教辞典 1989, p. 851.
- ^ a b c d e f g h 櫻部・上山 2006, p. 仏教基本語彙(1)-(10).
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 94.
- ^ 「意根」 - デジタル大辞泉、小学館。
- ^ a b 櫻部 1981, p. 138.
- ^ a b c d 櫻部 1981, p. 64.
- ^ 櫻部 1981, p. 64-65.
- ^ 五欲とは - ブリタニカ国際大百科事典/大辞泉/大辞林/コトバンク
- ^ 櫻部 1981, p. 73.
- ^ 櫻部 1981, p. 70.
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 60-61.
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 105.
- ^ 櫻部 1981, p. 65.
- ^ 岩波仏教辞典 1989, p. 851-852.
- ^ 櫻部・上山 2006, p. 65.
- ^ a b 櫻部 1981, p. 66.
- ^ 櫻部 1981, p. 70~71.
- ^ 例えば『仏説長阿含経 巻第八 第二分衆集経第五』(T0001_.01.0051c19~26)
- ^ 『雑阿含経 巻第八 一九五』(T0099_.02.0050a13~23)等。また大乗経典の『摩訶般若波羅蜜経 巻第二 往生品第四』(T0223_.08.0231b19~20)にも見られる。
- ^ 櫻部 1981, p. 72~73.
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