ヒポクラテス
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後世への影響
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ヒポクラテスは広く「医学の父」と認められている[50]。医術を迷信から切り離し、経験科学としての医学を発展させ、職業としての医師を確立させるなど、医学の発展に大きな貢献があったからであるが、ヒポクラテスの死後、その発展は停滞してしまう[55]。ヒポクラテスは後代広く崇拝され、その偉大さゆえにその医学を大きく発展させることは長期にわたってみられず[8][26]、ヒポクラテスの死後数世紀の医学は、それまで進歩したのと同じくらい後退した。例えば、フィールディング・ギャリソンは「ヒポクラテス時代の後、臨床例を記録する行為などは廃れてしまった。」と述べている[56]。
ヒポクラテスのあと、医学史上次に現れた重要な医師は古代ローマのガレノス(129年-200年)である。ガレノスはヒポクラテスの業績を永続的なものとし、その医学を一部前進させ一部後退させた[57]。中世、ヒポクラテス医学を受け継いだのはアラブ社会であった[58]。ルネサンス期を経て、ヒポクラテスの手法はヨーロッパで再評価され、19世紀には更に拡大した。ヒポクラテスの臨床医学を継承した著名な医師はトーマス・サイデンハム(1624年-1689年、英国)、ウィリアム・ヘバーデン(1710年-1801年、英国)、ジャン=マルタン・シャルコー(1825年-1893年、フランス)、ウイリアム・オスラー(1849年-1919年、カナダ)らである。フランスの医師アンリ・ウシャールは、こうした再評価が「内科医学の歴史のすべて」を作り上げたと述べている[59]。
イメージとしてのヒポクラテス
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アリストテレスによると、ヒポクラテスは生前から「大ヒポクラテス」として知られていた[60]。その気質に関して、ヒポクラテスははじめ「寛容ながら威厳のある年老いた田舎の医者」として描かれ、後には「厳格で近づき難い」イメージで描かれた[8]。偉大なる知性と特に非常に実践的な能力を持った賢者のイメージである。スコットランドの医師でギリシア語翻訳家のフランシス・アダムスはヒポクラテスを「経験と良識のある医者」であると表現した[17]。
年老いた賢者としてのヒポクラテスのイメージは、顎鬚と皺の寄った風貌の胸像によっても強まった。当時多くの医師がユピテル像やアスクレピオス像のような髪型にしたといわれているが、今日我々の見るヒポクラテス像はそうした神々のスタイルを踏襲しない稀な例と考えられる[55]。ヒポクラテスとその信念は医学の理想とされた。医学史の権威フィールディング・ギャリソンは「ヒポクラテスは、心のバランス、柔軟さ、そして批判精神のあり方の手本であり、とりわけいつも過ちの原因となるものを看視し続けた。それはまさに科学的精神の真髄である[59]。」「彼の姿はいつも医師の理想像として立ちそびえている[61]」と述べている。
江戸時代後期の日本におけるヒポクラテス崇拝
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江戸時代後期の日本で蘭方医学が隆盛すると、漢方医が本草学の祖として神農を祀っていたのに対抗する形で、蘭方医は西洋医学の父としてヒポクラテスを掲げた[62]。渡辺崋山や宇田川榕菴などがヒポクラテス像を描いた例が知られるほか[63]、多数の作品が残っており、それなりに需要があったことが窺われる[62]。さらに、かつて薬屋が集まっていた京都市二条通に位置する薬祖神祠では、日本の大己貴神・少彦名神、中国の神農に加えてヒポクラテスも薬祖神として祀られている[64]。
逸話
ジロデ=トリオゾン画、1792年
ヒポクラテスの生涯にまつわる様々な逸話は、その多くが史実と一致せず、さらにはイブン・スィーナー(ラテン名の英語読み:アヴィセンナ)やソクラテスにまつわる話に類似した逸話もあり、おそらく伝説を起源とするつくり話の類と考えられる。だがヒポクラテスが存命中から、おそらくその高名さ故に、病を奇跡の力で治療したといった逸話が生まれていた。例えば、ヒポクラテスは「アテネの疫病」に際し、町の消毒のために大きなかがり火を焚いてアテナイ人を救った、または、マケドニア王ペルディッカス2世の恋の病を治したとも言い伝えられている。だがどちらの話も史料の裏付けが無いため、実際にあった話ではないと考えられている[65][66][67]。
その他にも、ヒポクラテスがペルシア王アルタクセルクセスの宮廷に招聘された際、「ペルシャ王の至福にあずかることも、ギリシャ人の敵であるにもかかわらず夷狄を病気から守ることも、私には許されない[68]。」と言って断ったという逸話もある[69]。古代の資料によるとこれは事実のようであるが、現代の研究者には史実性に疑いを持つ意見もある[70]。 また、原子論で知られるアデブラのデモクリトスは、いつでも誰に対しても笑っていたり、動物の死骸が家の周りに散乱するなどしていたので市民から少し頭がおかしくなったのではないかと思われてしまっていたが、市民に請われデモクリトスを診たヒポクラテスは、デモクリトスの聡明さとその行動が彼の哲学によるものであることを知り、「幸福な人である」と診断した。このことがあってからデモクリトスは「笑う哲学者」と呼ばれるようになったという[71][72][73][74]。ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』にも、「アテノドロス『散策』第8巻によれば」とした上で、ヒポクラテスとデモクリトスが知己であったことを伺わせる記述がある(ヒポクラテスが若い娘を連れて歩いていたところ、デモクリトスは最初に会ったとき娘に「今日は、娘さん」と挨拶したが、次の日は「今日は、奥さん」と挨拶した。デモクリトスは娘がその晩のうちに処女を失ったことを一目で見抜いた[75])。
ヒポクラテスの逸話は、その業績を讃えるものばかりではない。ヒポクラテスがとあるギリシアの神殿に放火して逃げ去ったという話も伝わる。これはエフェソスのソラノスの記述を典拠とする話で、ソラノスは神殿はクニドス派の神殿であったとしているが、12世紀ビザンティンの史家ヨハネス・ツェツェスの著作では、ヒポクラテスは医学知識を独り占めするためにコス島の神殿に放火したとされている。一説には、ヒポクラテスが医術を神々の行いから切り離したことに反発した守旧派が、火事をヒポクラテスの放火によるものであると決めつけ、疑いをかけられたヒポクラテスはコス島を後にし、遍歴医として世界各地を巡る旅に出たのだという[74]。
ヒポクラテスの名をもつもの
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病気の症状の中には、ヒポクラテスがその症状を最初に記した人物と信じられていることから、今日でもヒポクラテスの名を冠して呼ばれるものもある。ヒポクラテス顔貌とは、死、あるいは長期の病気、過度の排出(嘔吐、下痢、排尿など)、過度の飢餓によって生じた顔貌の変化のことであり、ヒポクラテス死相ともいう。指・爪の変形した状態であるばち指も、ヒポクラテスが肋膜および肺の炎症からばち指となることを指摘していることからヒポクラテス指と呼ばれる。ヒポクラテス振盪音とは、水気胸、膿気胸の位置を確認するとき聞こえる音である。肩関節脱臼や顎関節脱臼の整復法にはヒポクラテス法と呼ばれる方法もある。『ヒポクラテス全集』、『ヒポクラテスの誓い』もヒポクラテスの名を冠したものに含まれるであろう。
現代では、月のクレーターにヒポクラテス(en)と名付けられたクレーターがあり、ギリシャのコス島にはヒポクラテス博物館がある。『ハリー・ポッターシリーズ』には、アーサー・ウィーズリー氏の主治癒としてヒポクラテス・スメスウィックという人物も登場する。ニューヨーク大学 メディカルセンターには、「ヒポクラテス・プロジェクト」と呼ばれる、テクノロジーを活用して教育の充実を図るプログラムがあり、似た様な名前ではあるが、カーネギーメロン大学コンピューターサイエンススクールとシャディサイド・メディカルセンターによる「コンピューター補助による次世代手術ロボットの設計・開発」を目的としたプロジェクトが、HIgh PerfOrmance Computing for Robot-AssisTEd Surgery (手術を補助するロボットの為の高性能コンピュータ)の頭字語から「プロジェクト・ヒポクラテス」と名付けられている[77]。またカナダとアメリカには、『ヒポクラテスの誓い』を時代を超えた不変不可侵の原則として原本のままの形で規範とする医師らによる団体「カナダ・ヒポクラティック・レジストリ[78]」と「アメリカ・ヒポクラティック・レジストリ」がある。
- ^ 当時てんかんのことを神聖病と呼んだ。
- ^ クリシス:病気の分かれ目に際して起こる変化のこと。法廷用語「判決(クリシス)」を転用したとする説(小川 (1963),p.194)と、krino = to separateという動詞に由来するとする説(梶田 (2003),p.60)がある。
- ^ 名前の左の数字は系譜番号で、例えば、Hippocrates II. を1とすると、父親Heraclidesは2となり、祖父Hippocrates I.は4となる。本文家系図によると、ヒポクラテスの15代前の先祖がアスクレーピオスということになる。
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