ナチス・ドイツの経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 14:14 UTC 版)
概要
ヴァイマル共和政時代のドイツ経済は、一時好調であったものの1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌によって壊滅的な状況に陥った。失業率は40%に達し、社会情勢も不安定となった。この情勢下で政権を握ったのがアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ヒトラー政権は前政権からの雇用増加政策と、経済相兼ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマル・シャハトの指導による新規の計画等によって失業を改善し、1937年にはほぼ完全雇用を達成した。恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきているが、ドイツの回復は賃金の増大や民間消費拡大をともなわなかった[1]。しかもドイツ経済の足かせであった外貨不足や、輸入困難による資源不足は解決されず、軍備拡大のために膨大な国家債務も抱えることになった。1936年からは自給自足経済の成立を唱えた第二次四カ年計画を開始するが、資源難と労働力不足は改善されなかった。1938年には軍備生産を3倍にするという計画が立てられたが、実務において一貫性はなく、財政危機で破綻した[2]。こうして軍拡も不完全なまま第二次世界大戦の開始を迎えた。
戦争が始まると戦争経済体制に移行し、1940年に創設された軍需省[注釈 1]が指導する体制になった。またポーランド人やユダヤ人の強制労働による占領地からの搾取も始まった。1942年にアルベルト・シュペーアが軍需大臣となると、ドイツの軍需生産は拡大されて総力戦体制の構築が進んだ。しかし戦局の悪化とともにドイツ経済は悪化の一途をたどり、敗戦を迎えた。
経済に関するナチスのイデオロギー
経済におけるナチズムのイデオロギーは不鮮明である。結党時からのメンバーで25カ条綱領の策定にも携わり、党の経済委員会の座長を務めていたゴットフリート・フェーダーは利子奴隷制の打破や企業の国有化、国際金融資本との戦いを持論としていた。ヒトラー自身も『我が闘争』においてフェーダーの主張を一部取り入れているが、同時に「国家は民族的な組織であって経済組織ではない」「国家は特定の経済観または経済政策とは全く無関係である」とも述べており、統一的なナチス経済政策というものは存在しなかった[3]。
一方で経済政策について熱心であったのはグレゴール・シュトラッサーを中心とするナチス左派と呼ばれる社会主義的改革を求める派閥であった。しかしヒトラーが政権獲得のために保守派や財界に接近すると、左派は猛反発した。ヒトラーは1926年のバンベルク会議で左派を押さえこんだが、その後も一定の勢力は保持していた。1932年7月にナチ党が公表した経済振興策はシュトラッサーが起草したものであった。この振興策には道路網計画などの一部は後のナチス時代において実行されるが、この計画の実質的な発案者はユダヤ人のロベルト・フリートレンダー=プレヒトルであった[4]。また5月にはフェーダーの持論に基づく、全銀行・信用供給機関の国有化を提案している[5]。政権獲得後にはこれらの計画は白紙に戻され、フェーダーや左派の思想がそのまま実行されることはなかった。
ヒトラーは1933年2月8日の閣議において、「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、いつでもどこでも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と言明するなど、ヒトラー内閣時代の経済政策はすべて軍備増強を念頭に置かれたものであった[6][7]。
経済政策の基本には、民族共同体の構築[8]、東方への侵略と植民による生存圏(レーベンスラウム)の拡大、そのための軍拡があった[9][10]。個別政策では、経済団体統制に用いられた指導者原理、農業政策における独立小農民保護政策、労働環境からの女性排除、そして経済の脱ユダヤ化などはナチズムの思想に基づくものであった。
政権獲得から第二次大戦まで
前史
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を負わされたドイツは経済的にとっても不安定であった。フランスのルール占領に対する抵抗が引き起こしたインフレーションは天文学的な規模におよんだが、ライヒスマルク(以下、マルクと表記)の新規発行で終息した。その後は黄金の20年代と呼ばれる好景気期を実現したが、1928年頃から次第に景気は後退し、1928年半ば頃には159万人だった失業者が、1929年半ば頃までに20万人増加した[11]。1929年10月に世界恐慌が始まると、アメリカをはじめとする外資によって支えられていたドイツ経済はたちまち破綻した。国内の需要は極端に減少し、財・サービスの輸出入は落ち込んだ。産業構造は第一次世界大戦期からの重工業・化学製品重視政策が継続されていた[12]。
1930年に首相となったハインリヒ・ブリューニング首相は金融安定化策で不況に対応しようとした。景気悪化状況での経済対策には財源が必要であり、増税が不可避であった。しかし増税策は議会の反対で否決され、ブリューニングは大統領緊急令や複数化の選挙による強行突破で予算や金融政令を成立させた。ブリューニングが選択した政策は税収増加・福祉予算等の政府支出の削減・物価の抑制を主眼としたデフレ政策であり[13]、彼は「飢餓の首相」と国内から批判を受けた[13]。一方でハインリヒ・ブラウンス前労相の指揮の元、外国融資を資金として大規模な公共事業計画を立案した[13]。
1931年3月23日にはオーストリアとの関税同盟(独墺関税同盟)を結んだ。しかしこれはヴェルサイユ条約の「ドイツ・オーストリア合邦禁止」規定に抵触するとして連合国諸国から強い反発を受け、フランスは制裁としてオーストリアの資本を引き揚げた。これを受けてオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルトが破綻し、ヨーロッパの金融危機を招いた。1931年7月にはドイツ第2位の大銀行ダナート銀行が支払い停止で閉鎖され、大統領令で8月までドイツ全土の銀行が閉鎖されたものの金融危機は収まらず、不況はさらに悪化した。外資もあてに出来ない状況となり、インフレの再来を恐れる世論やライヒスバンクが大規模な財政出動に反対したため、公共事業計画は縮小された上に実施されなかった[14]。1932年2月には登録失業者が600万人、非登録失業者を加えた推計が778万人に達してピークを迎えた[15]。産業総失業者割合は40%を超え、同時期のイギリスやアメリカの2倍近くに達している[11]。金・外貨準備も減少が止まらず、すべての金・外貨管理をライヒスバンクが監督するよう制限を行ったが[16]、1932年2月には10億マルクを割り込んでいる[17]。
5月にはブリューニングが失脚し、フランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。パーペン政権では租税証券による実質的な企業減税策が策定され、新規雇用を行った企業には一人につき年400マルクの租税証券を公布することで雇用を増大させようとした。またブリューニング内閣時代の公共事業計画を拡大し、総額3億マルクに及ぶ公共事業計画(パーペン計画)を開始した[18]。また同年12月3日に首相となったシュライヒャーも雇用創出国家弁務官にギュンター・ゲーレケを任じ、雇用創出委員会を発足させた。この委員会は総額5億マルクにおよぶ雇用創出公共事業、緊急計画を決定し、ライヒスバンクによる部分的な同意も行われたが、翌1933年1月にシュライヒャー内閣が倒れたため実行されなかった。この両内閣はブリューニング内閣のデフレ政策を転換し、景気も反転ないし底入れした[19]。
政局はきわめて不安定であり、ドイツ共産党と国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は勢力を拡張した。特に企業経営者などには右派が多く、共産党に対抗するためナチスに対する資金援助を行った。1932年11月19日にライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト、合同製鋼社長フリッツ・ティッセン、ヴィルヘルム・クーノ元首相らケップラー・グループの政財界人が連名でヒトラーを首相にするよう請願書を送っている[注釈 2]。
1933年1月30日にはヒトラー内閣が成立した。経済対策に当たる経済相・農業食糧相にはナチ党と連立を組んだドイツ国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクが就任した。ライヒスバンク総裁ハンス・ルター、ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相はパーペン内閣、シュライヒャー内閣と続けて留任した。
経済分野の強制的同一化
政権獲得後の1933年2月1日にヒトラーは国民へのラジオ放送で「二つの偉大な四カ年計画」として第一次四カ年計画の開始を発表し、失業者の削減と自動車産業の拡大を訴えた。しかし、その後にナチ党は国会議事堂放火事件(2月27日)後の二つの大統領緊急令、全権委任法によってきわめて強力な独裁権力を確立した(ナチ党の権力掌握)。ナチ党がまず行った経済政策は、ナチ党の思想に基づくよう政治・経済・産業界を再構成する強制的同一化であった。失業対策は前政権のパーペン計画・緊急計画を踏襲するのみで、労働政策のとりまとめが開始されたのは5月1日になってからだった[20]。3月にはライヒスバンク総裁ルターがナチ党と対立して更迭され、ナチ党の支持者であったシャハトが再任された。シャハトは8月からは経済相も兼ね、1935年5月21日には戦争経済全権にも就任、この後の経済政策を主導することになる。
5月2日にはすべての労働組合は解散され、ロベルト・ライが率いるドイツ労働戦線に一本化された。これにより労使関係調整はナチ党の手中に落ちた。7月15日には強制カルテル法が施行され、新規企業設立の禁止、同業企業によるカルテル設立の強制と、国家による監視と規制が行われる体制が始まった。9月13日には帝国食糧団体暫定設立法によって分野別の経済団体が設立され、国がその指導者を任命することで経済活動を統制する仕組みが定められた[21]。指導者制度はナチズムの基本概念である指導者原理に基づくものであり、経済団体は国家の下部機構として動くようになった[21]。11月16日には価格停止令が布告され、商品の価格と原価の管理を国が行うこととになった[22]。
1934年2月には経済有機的構成準備法が施行され、企業は各分野の経済集団(Wirtschaftsgruppe)もしくはライヒ工業集団の地方組織に入ることが義務づけられた[23]。7月、シャハトは経済措置法によってから9月までの間、既存の法律の枠を超える権限を手に入れた。この権限に基づき8月20日には商工会議所令が発せられ、商工会議所の権限が拡大された上で、経済大臣が会頭・副会頭の任免権を含む監督権を持つこととなった[24]。これによって商工会議所の主要人事の大半はナチ党関連の人物が占めることとなり[25]、全国の中小企業もナチ党体制に組み込まれた。こうした企業統制化の影響で、株式会社数は1933年の9148社から1934年8618社、1935年7840社、1936年7204社と明確に減少し、資本集中が顕著となった[26]。
シャハトの時代
5月31日にヒトラーは指導的経済人と会議を行い、この席で道路網整備と住宅増加が雇用増大の出発点であるとした。また大企業からの要請に基づき、租税の5年間据え置きと、社会政策支出削減によって予算を均整化する方針を固めた[27]。これ以降6月1日には第一次失業減少法(ラインハルト計画)、9月21日には第二次失業減少法(第二次ラインハルト計画)、9月23日からはアウトバーンの建設といった半奉仕活動的な雇用による失業抑制策がとられた。また結婚奨励金や家事手伝いの奨励により、女性を労働から家庭に送り込むことを奨励したが、生活消費を増加させる効果もあった[28]。これらの政策によって登録労働者は1933年のうちに200万人減少したが、奉仕活動的な雇用や統計操作を含むものであり、再軍備や軍需拡大による雇用創出が行われるまでの時間稼ぎ的な性質のものであった[29]。一方で企業に対して租税減免措置がとられ、自動車産業に対する保護育成策もとられた。また低調であった民間投資を集中するため、重点的事業でない繊維・紙パルプ・ラジオ・自動車部品製造などの分野には投資禁止措置がとられた[26]。
1934年3月をピークとして雇用創出での雇用は減少しはじめ、1935年には20万人程度まで低下した[6]。この間に生産財製造業や建築業、自動車産業での雇用が進んだ[30]。また1935年3月16日には正式に再軍備が開始され(ドイツ再軍備宣言)、徴兵制が再開されたことで国防軍に86万人が吸収されたこともあって失業問題は解決され、ほぼ完全雇用が達成された[31]。
また大規模な公共投資は直接的な雇用だけではなく、関連企業の投資を促して景気回復を促した[32]。1936年には国民総生産が1932年比で50%増加し、1936年には国民所得が42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%増加した[33]。しかし各種政策への出資にともない、1933年から1937年の期間で国家債務が110億マルク増大していた[34]。産業面では公共事業に直結する生産財製造業や建築業の活況が景気を支えた。特に自動車産業の成長が目立ち、1934年の生産額は過去最高の1928年比で148%、1935年には200%を超えた。さらに雇用数は1934年には過去最高の1928年の水準に達し、1935年にはこの水準をも超過した[35]。さらに石炭・冶金・機械工業企業では総利益が2倍になっている[36]。この一方でヴァイマル時代からの外貨不足状況は変わっておらず、原材料である生糸や綿の輸入が進まなかったため、消費財分野の主力である繊維工業は停滞し、消費財分野全体の雇用者もほとんど増加しなかった[37]。また、統制による賃金抑制は国内消費水準回復の遅滞を招いた[38]。また、同時期には食糧相リヒャルト・ヴァルター・ダレが推進した血と土のイデオロギーに基づく農本主義的農業政策が行われたが、自立小農民を保護する政策は経営合理化を妨げ、増産につながらなかった。また農地の長子単独相続を定めたために次男以下の離農が進み、農業振興とは逆行する事態が発生した[39]。このことと天候不順が重なり、食料輸入が1936年代の課題となる。
インフラ
帝国アウトバーン会社の設立に関する法律によって、6月30日にドイツ国営鉄道の子会社である帝国アウトバーン会社が設立され、技術者であったフリッツ・トートが「ドイツ道路総監」に任命された。アウトバーン関連には1935年6月までに4億マルクが投資され、最大12万人の雇用が行われた[40]。ただし、アウトバーン関連労働者の一部に対しては少額の手当と衣食住の支給が行われたのみであり、賃金と呼べるほどのものは受け取っていなかった[41]。
各種助成
自動車税法改定により、自動車・オートバイの購入には免税措置が行われた。また第一次ラインハルト計画では設備投資に対する各種税の免除、租税軽減法では工場建物改修費用の一割が減免された[42]。第二次ラインハルト計画では住宅建設促進のため、住宅補修や改築に資金援助を行ったほか、借り入れを行った際の利子肩代わりも行った。このため1934年の住宅建築数は新築の割合が少ないとはいえ、1929年の水準に戻っている[43]。重工業・化学分野の産業育成も継続された[26]。
財政・金融
財源は、ヒトラーが増税を否定し、公債発行も困難であったため、割引手形という手段にたよるほかはなかった。雇用創出に関しては国が支払いを保証する3ヶ月の雇用創出手形が創出された。この手形は3ヶ月期限であったが、借り換えによって最大5年までの割り引き期限延長が可能であった[44]。しかし雇用創出以外の公共事業や軍需面でも資金が必要であったが、公然たる多額の公債発行は破滅的なインフレを招く危険性があり、シャハトは一種の抜け穴を利用することにした。1933年4月に政府は軍に対する通常の予算監督の免除を決定し、6月に特別財務局を設立して軍への予算外資金を管理することにした。1933年5月、国防省とライヒスバンクは有限会社冶金研究協会(Metallurgische Forschungsgesellschaft、略称MEFO)を設立した。同社は国防省とライヒスバンクによって手形引受機関として作成されたペーパーカンパニーであり、資本金はクルップ、ティッセン、シーメンス、グーテホフヌングスヒュッテ、ドイツ工業企業が20万マルクずつ拠出している[45][46]。公共事業や軍需の発注を受けた会社は有限会社冶金研究協会に3ヶ月期限の手形(メフォ手形)を振り出し、この手形をライヒスバンクが割り引くことで支払いにあてた。この手形も雇用創出手形と同様支払期間は延長可能であったが、割引き機関はライヒスバンクのみであった[47]。また支払保証や予算に対する償還計上も行われなかった[48]。
貯蓄奨励
ナチス政府にとって、金融恐慌の再来を防ぐ金融システム構築と、軍事費捻出の両方の政策の鍵が国内預金量の半分を占める全国の貯蓄銀行であった。貯蓄銀行は1931年の改革によって独立公法人となっており、政府にとって利用しやすい存在であった[49]。政府は国民貯蓄会議を設立し、「貯蓄は労働とパンをもたらす。浪費は国家建設のサボタージュ」と喧伝した。また労働戦線傘下の歓喜力行団による旅行貯蓄・オリンピック貯蓄・ヒトラーユーゲント貯蓄など特別貯蓄制度も貯蓄熱をあおった。全国の預金量に対する貯蓄銀行の割合は1930年には42.4%、1933年には53.5%で115億マルク、1935年には58.1%、1939年には57.4%と増加し、開戦後の1939年年末には193億マルクに達した[50]。貯蓄銀行はこの膨大な資金力で公債を買い支え[51]、静かな戦時貯蓄と呼ばれるもう一つの戦争財源となった[50]。
ゲーリングの時代
1936年夏頃には外貨不足と2年連続の農業不振が重なって、ドイツ経済は深刻な原料危機を迎えており、景気失速の危険があった[31]。この危機を乗り越える方策としては協調外交と軍拡の減速に政策を切り替えるか、軍備拡大を続けて領土拡大によって占領地から収奪するかという二つの道があったが、ヒトラーとナチ党にとっては後者以外の選択はあり得なかった。このため前者の路線を志向するシャハトは放逐される運命であった[52]。さらに食糧輸入への外貨割当拡充をめぐってシャハトと食糧相ダレが深刻な対立を開始した。ヒトラーの命令でナチ党No2の航空相ヘルマン・ゲーリングが仲介に入り、彼は外貨・原料問題の全権を掌握した[53]。
8月の夏期休暇の最中、ヒトラーはオーバーザルツベルクのベルクホーフにおいて、「第二次四カ年計画」の秘密覚書を書き上げた。この覚書には、4年以内に戦争を可能ならしめるための国防経済体制への移行計画が書かれていた。9月9日、ヒトラーはニュルンベルク党大会において、覚書に基づいた自給経済体制(ドイツ語: Autarkie、アウタルキー)の確立を目指す第二次四カ年計画の開始を発表した[54]。10月18日には四カ年計画施行令が発令され、ゲーリングが四カ年計画受託官として、計画遂行のための全権を付与された[31]。シャハトはゲーリングと対立し、11月に経済相を辞任した。以降ゲーリングが経済相も兼ねることとなり、経済分野の全権を掌握することとなった。
計画が進展する1938年頃には過剰な通貨供給と軍需拡大によってさらに景気が過熱し、インフレの危機と外貨不足がいっそう深刻化した[55]。このため1936年11月の物価ストップ令など物価抑制措置が相次いでとられた[56]。また資本集中もいっそう進み、ドイツ企業の12.5%を占める500万マルク以上の大株式会社が、全企業の資本金総額の78.5%を占めるようになっていた[36]。
四カ年計画
四カ年計画による自給経済構築とは、外貨不足により輸入が困難であるため、資源の国内自給を高めるものである[54]。ゲーリングが12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」[57]と語ったように、計画の実行は経済性を無視したものであった。1937年2月にはヴァルター・フンクが経済相と戦争経済特命委員に就任したが、フンクはゲーリングの腹心であり、大きな路線変更は行われなかった。この四カ年計画で実権を握ったのは、最終的にはゲーリングに次ぐナンバー2となったIG・ファルベンのカール・クラウホであった。
四カ年計画では戦時の輸入途絶を前提として、化学繊維や人造石油・合成ゴムなどの代用品開発が推進された[31]。また1937年7月には国営企業としてヘルマン・ゲーリング国家工場が設立され、これまで不採算のため放棄されてきた国内資源の開発にあたった。四カ年計画のために投じられた資金は、ドイツ全体の設備投資金額の半分以上を占める莫大なものであった[58]。また四カ年計画の技術者はIG・ファルベンの関係者が多く、1939年の段階で20%、戦時には30%がIG・ファルベン出身者であった[59]。また10月29日の執行令により四カ年計画局にライヒ価格形成監理局が設置され、経済集団と連携して全国の価格を監視した[60]。
しかしドイツ国内の資源類は偏っており、また軍需産業への労働力集中は農業人口の減少を招き、食糧自給が困難になった[52]。1937年11月5日の秘密会議でヒトラー自身も完全な自給経済体制構築は不可能であると述べ、自給が可能であるのは石炭・鉄鉱石・軽金属・食用油にすぎず、食糧にいたっては「まったく無理」であるとした[61]。ヒトラーは食糧自給のためにはヨーロッパ内での領土獲得が不可欠であると述べ、近い将来における戦争準備推進を要求した(ホスバッハ覚書)。
1938年になると四カ年計画の軍備への傾斜がいっそう鮮明となった。7月以降いくつかの部分計画が追加されたが、四カ年計画としてのまとまりを欠くようになった[59]。12月にはアウトバーン総監であったフリッツ・トートが建設経済統制特命委員に任ぜられ、彼の指揮下にあるトート機関が、アウトバーンの他に西部国境の要塞線ジークフリート線などの軍事施設建設を開始している。1939年頃には四カ年計画の機構すらも統一性を失っていった[59]。これらの政策で石炭は8000万トンの増産に成功し[注釈 3]、鉄鉱石生産高は1932年の260万トンから1938年の1500万トンへ急成長した[62]。しかし自給の努力にもかかわらず、物資備蓄ははかばかしく進展せず、1939年10月の時点でガソリン、ゴム、鉄鉱石、銅、ボーキサイトの備蓄量はわずか半年分に過ぎなかった[63]。1938年秋からライヒスバンクは不動産抵当融資を禁止したため、公的資金による住宅の建設が停止した。ドイツはすでに深刻な住宅不足に陥っていたため、失望を招いた[64]。
財政・金融
通貨であるマルクの切り下げはたびたび検討されたが、マルクの切り下げは再軍備と両立しないために実現しなかった。1936年、前帝国価格監視管理官のカール・ゲルデラーはドイツの通貨政策を検討し、国際経済でドイツの悪化を防ぐにはマルクの切り下げと変動相場制が必要だと述べた。ライヒスバンクの職員はゲルデラーに賛成し、企業人もシャハトに通貨調整のための輸出課税制度を廃止するよう提案した。しかし、ヒトラーやシャハトはマルク切り下げの議論を拒否した[65]。
とにかく歴史から学びたまえ、これまで借金で亡びた民族など一つもありはしないのだから — 1942年5月4日のヒトラー談話[66]
1937年の時点でメフォ手形の発行額は120億マルクに達していた。シャハトはこれ以上の増発は国家の支払い能力を超えるとして、1938年にメフォ手形を発行停止にした[67]。1938年2月以降、ドイツのマネーサプライはそれまでの5年分を超える増加となった。公共事業と再軍備が主な原因であり、賃金格差が激しくなった。ライヒスバンクは各産業の賃金と価格水準の乖離を指摘し、賃金と物価の構造が崩壊したと表現した[68]。
しかしメフォ手形及びライヒスバンク・政府が発行した手形の債務は短期金融市場を圧迫し、さらにヒトラーの拡張政策による軍備費の増大もあった[注釈 4][70]。1938年9月にはドイツ国営鉄道やライヒスポストの資金を流用して乗り切ったものの、10月のライヒスバンクによる国債発行は30%近くが売れ残って失敗し、12月には20億マルクの不足が出た。長期借入による資金調達が不可能となった政府は、インフレーションを容認するか、増税かの選択を迫られた[71][72]。
軍拡のためにはさらなる資金が必要であり、ゲーリングらはメフォ手形の償還を行わず、中長期債による資金調達を開始した。シャハトらライヒスバンク首脳はこれに抗議し、1939年1月7日に債券増発の危険性を警告する書簡をヒトラーに送った。これは経済面から進路を変更しようとするライヒスバンク側の説得だったが、ヒトラーは激怒してシャハトらを更迭し、フンクをライヒスバンク総裁に据えて人事を一新した[73]。6月15日にはライヒスバンク法が制定され、独立性を失ったライヒスバンクは国家に従属する一官庁に位置づけられた[74]。
1939年5月、国防軍は二種類の租税証券を発行して軍事費調達にあたった。この増発は証券の相場下落や受け取り拒否を招いたために発行は11月に停止され、ライヒスバンクが引き取る形となった[75]。また政府はライヒスバンクから無制限に信用供与を受け、それで政府財政をやりくりする事態となっていた[76]。ライヒスバンクの対政府信用はさらに増加し、インフレ圧力が強まった[77]。
領土編入
1935年にザールラントがドイツに復帰し、ドイツの石炭収入は飛躍的に増加した。1938年3月13日にはオーストリアが併合され(アンシュルス)、ドイツ経済域に組み込まれた。オーストリアには60万人の失業者が存在するなど不況のまっただ中であったが、ドイツは7億8200万マルク相当の金・外貨準備と水力発電を含む膨大な資源も獲得した。工業生産高が8%追加され、鉄鉱石を産するアルピネ鉱業はヘルマン・ゲーリング国家工場が獲得した。3月23日にはオーストリア経済復興令が発令され、公共事業による雇用拡充が行われた。同年11月には継続して失業している者は10万人に減少したと発表されている[78][79]。しかし、オーストリアは食糧と鉱業原材料を輸入しているため、国際収支には長期的にはマイナスの影響となった。オーストリア貿易が加わることで、ハンガリーやポーランドはドイツに対する貿易依存率が増えたため、貿易条約締結につながった[79]。
同年10月にはミュンヘン会談の結果、チェコスロバキアからズデーテン地方を獲得した。政府はこれによって同地の繊維・ガラス・陶磁器工業を手に入れた[80]。さらに翌1939年3月にはチェコをベーメン・メーレン保護領として支配下に置き、同地の鉱山や当時世界有数の武器工場を手に入れた。また、外貨不足にあえぐドイツにとって、保護領の外国貿易は貴重な外貨供給源であった[80]。
ユダヤ人からの収奪
ナチスは発足時から反ユダヤ主義を掲げており、政権獲得後にはユダヤ人商店に対するボイコットなどを扇動していた。しかしシャハトは経済分野を阻害する反ユダヤ主義には反対の立場を取り、1935年11月に全国の商工会議所会頭にユダヤ人の自由な経済活動を保障する必要性を説く書簡を送った[81]。しかし1937年後半以降、経済の脱ユダヤ化政策が加速し始めた[注釈 5][83]。
オーストリア併合後の1938年3月11日は、オーストリアでユダヤ人への暴力と略奪が起きた。オーストリアでユダヤ人が経営する企業は、ナチ党員の長官の管理下となった。4月26日には、ドイツとオーストリアのユダヤ人は5000マルク以上の資産の報告が義務化され、四カ年計画の組織はユダヤ人の資産を利用できるようになった[84]。6月14日には経営陣に一人でもユダヤ人がいる経営をユダヤ経営と見なし、諸官庁のリストに登録された[85]。
ライヒスバンクは、非アーリア系企業への融資を中止する指示を出した。ユダヤ人企業は原材料配分の最下位とされた。アーリア化業務としてユダヤ系施設の売却も行われ、繊維関連工場340カ所、卸売企業370カ所があり、民間銀行22カ所の中には有名銀行も含まれていた。ドイツ系企業は、元ユダヤ人の資産を破格の安さで購入した。ユダヤ人が受けた略奪で最も利益を得たのは、ドイツ国家とドイツの納税者だった[86]。親衛隊はドイツ国内からのユダヤ人追放を意図していたが、ドイツでは外貨不足の影響で出国費用が高くなっており、ユダヤ人の国外移住が少ない理由にもなっていた。ライヒスバンクの試算によれば、ユダヤ系ドイツ人の国外移住には22億から51億5000万マルクに達するとされ、この金額はライヒスバンクの外貨準備の数倍であった。ユダヤ人に移住をすすめながら、資本を国外へ持ち出すユダヤ人を非難するという状況になり、ユダヤ人への差別は悪循環を起こした[87]。
11月9日には国内各地でユダヤ人が虐殺され、商店のガラスが割られて道路に飛び散ったために水晶の夜と呼ばれた[88]。11月12日にはユダヤ経営の営業や、ユダヤ人が経営を行うことが禁止され、同日に施行された資本税は3年間に112億7000万マルクの税収があった。さらにドイツから出国するユダヤ人から資本逃避税として数億マルクを得た[89][90]。12月3日にはユダヤ人資産税でユダヤ経営資産や有価証券の譲渡が定められ、ユダヤ人の土地取得が禁止された[91]。またこうして譲渡された経営に勤務していたユダヤ人は解雇が厳命された[92]。1938年のうちにユダヤ経営の大半はドイツから姿を消し、ユダヤ人の9割が経済基盤を失った[93]。このためこの年はヴォルフガング・ヴィッパーマンによって「ドイツユダヤ人の財政の死」と表現されている[83]。さらに1939年にはユダヤ人保有の金・銀・プラチナや宝飾品の供出が義務づけられるなど、迫害はますます進行した[94]。大規模な迫害にも関わらず、ユダヤ人からの収奪で得たものは国内の資金移転であり、ドイツ経済全体の改善にはならなかった[90]。
経済学者の見解
1938年6月2日、国防軍国防経済局とライヒスバンクの共催で会議が開かれた。ライヒスバンク、国防軍の軍事経済スタッフ、権威ある経済学教授たちが出席して議論が行われ、ドイツ経済について以下のような問題点があげられた[95]。
- 財政的なその場しのぎの手法(メフォ手形など)
- 一元化されていないドイツ負債の危険性
- 公的債務の限界
- さらなる消費制限の可能性
- ライヒスバンクによるお金と信用創造の管理
- 将来的な企業部門からの信用要求の増加を満たす可能性
- 政府発注が一時的に緩和した場合デフレ兆候の危険性
- 公的部門以外のバブル経済の危険性
- 誤ったうわべだけの資金流動性が広がることの危険性
- 企業の自己資金繰りによる危険性
議事録には、出席者は重要な点について合意したので目的を達成したと記録されている[95]。
アメリカが英仏に協力した場合にドイツが不利になるという予測は、広く共有されていた。1939年5月24日、国防軍の主任エコノミストであるゲオルク・トーマスは、外務省職員に軍事経済の課題を講義した。英仏米の3カ国は1940年以降の防衛予算でドイツを20億マルク上回り、国民所得における軍備の負担は、ドイツの23%に対してイギリス12%・フランス17%・アメリカ2%だった。一連の分析は、時間の経過によってドイツがより不利になることを表していた。トーマスはヴィルヘルム・カイテルとヒトラーに開戦をとどまるよう説得を試みたが、失敗に終わった[注釈 6][97]。
所得・物価
1930年代のドイツ人の時給は、マルク単位ではなくペニヒ単位だった(1ドイツマルク=100ペニヒ)。時給1マルクを超えるのは工作機械熟練工・植字工などであり、男性で最も低いのは製材所・繊維工場で59ペニヒだった。1936年の完全雇用時点では、全納税者の62%の1450万人は年収1500マルク以下で週給30マルク・時給約60ペニヒにあたる。ブルーカラー労働者の年収は1500から2400マルク、ホワイトカラー労働者は3000マルクだった。所得は職業の他に性別によって大きく格差があった[注釈 7][98]。
支出では、飲食物・タバコ・コーヒーなどが生活費の43%から50%であり、家賃に12%、公共料金に5%かかった。4人家族の場合は残りが月額67マルクとなり、これで衣服、住宅設備、交通費、医療保険費、教育費などの出費をやりくりする必要があった[注釈 8][100]。
アメリカやイギリスとの経済格差は大きく、同時代のアメリカのデトロイトと同水準の生活をベルリンやフランクフルトでするには5380マルクから6055マルクが必要だった[101]。1930年代後半にラジオを購入できたのは半数の世帯であり、イギリスは68%、アメリカは80%だった[102]。
労働政策
年 | 失業者数 | 名目時間賃金率 | 名目週賃金収入 |
---|---|---|---|
1929年 | 1,898,6 | 122.4 | 149.4 |
1930年 | 3,075,5 | - | - |
1931年 | 4,519,7 | - | - |
1932年 | 5,575,4 | 100 | 100 |
1933年 | 4,804,4 | 97.0 | 102.2 |
1934年 | 2,718,3 | 96.8 | 109.7 |
1935年 | 2,151,0 | 96.8 | 122.3 |
1936年 | 1,592,6 | 96.8 | 116.6 |
1937年 | 912,3 | 97.0 | 120.6 |
1938年 | 429.4 | 97.4 | 126.5 |
1939年 | 104,2 | - | - |
1940年 | 43,1 | - | - |
雇用創出
ヴァイマル共和国時代からの重要な政治課題が膨大な失業者問題であった。1927年から機械力より人力を優先させる公共事業(緊急事業、ドイツ語: Notstandsarbeit)で雇用を創出しようという雇用創出計画が策定され、パーペン・シュライヒャー政権時代に決定されていた[105]。
ナチス政府はパーペン計画と緊急計画を継承した上で、主要な雇用創出計画を1933年中に策定した[106]。組閣後の2月1日にヒトラーは農民救済と失業問題解決を公約し、ヒトラーを議長、財務相クロージク、経済・農業相フーゲンベルク、労相フランツ・ゼルテ、労働担当国家弁務官ゲーレケによる雇用創出委員会を再スタートさせた。しかしナチ党を無視した政策を取ろうとしたゲーレケは3月に横領の疑いで逮捕され[107]、ナチ党主導による雇用政策があらためて開始されることになった。6月1日には第一次失業減少法、通称第一次ラインハルト計画がスタートした[注釈 11]。
ラインハルト計画は宣伝を意図しており、東プロイセンの長官であるエーリヒ・コッホは雇用闘争(Arbeitsshclacht)と呼ばれる運動を展開し、13万人の失業者を6ヶ月で農業入植地で雇用することに成功したと報告した。実際には、全人口の1.89%にあたる東プロイセンに対して不釣り合いな予算を雇用創出資金から投入して成立したイベントであり、より失業が深刻だった大都市圏には恩恵が少なかった[108]。6月27日には、帝国アウトバーン会社の設立に関する法律(Gesetz über die Errichtung eines Unternehmens Reichsautobahnen)が公布され、7月15日には租税軽減法、9月21日には第二次失業減少法、通称第二次ラインハルト計画がスタートした。
供給削減
雇用創出の一方で、ナチス・ドイツ政府は追加雇用(ドイツ語: Zusätzliche Beschäftigung)と呼ばれる失業者数の削減政策を取った。これは工業生産過程外で失業労働力を吸収し、労働市場の過密を緩和させるものであった[109]。
この追加雇用には緊急事業や1931年から始まった労働奉仕などがある。これらの事業に参加した労働者は衣食住は現物支給されたものの、賃金と呼べるほどのものは受け取っておらず、期間も短かった[110]。また大卒の若者を一年間農業年季奉仕に出し、労働市場への労働力供給を延期させた[111]。
さらに女子労働力の削減政策も行われた。第一次ラインハルト計画では結婚奨励と女子家事手伝いに対する優遇措置が盛り込まれ、女性の労働市場から家庭への移動が促進された[112]。
労働環境
労働者はドイツ労働戦線(DAF)に加盟し、その指導に従うようになった。労働戦線の組織歓喜力行団は労働者に余暇・スポーツ・演奏会・祭典を提供し、その中でナチズムの浸透を図った。
一方で賃金抑制策のため、景気が回復しても労働者の時間当たりの収益は伸びなかった。原則的に一日8時間、週40時間労働が定められていたが、労働力不足が深刻になると労働時間を延ばすことで対応した。また失業保険の保険料も引き下げられることはなく、支払い条件も厳格化された。集められた資金は本来の役割ではなく、公共投資のための基金となった[113]。
完全雇用の達成
諸計画を合計するとドイツ国家は1933年から1935年にかけて雇用創出費として50億マルク投じ、うち30億マルクは雇用創出手形によって調達された。この手形償還は1938年までに終了したが、財源は不明確である[114]。また、雇用に関する減免税は1933~1934年にかけて7億9000万マルク、租税証券発行も12億790万マルクに達した[115]。
政府は雇用創出のため、機械力などによる経済合理化を制限することで、人手を増加させる方策をとった。第一次ラインハルト計画や1933年7月15日の「タバコ産業における機械使用の制限に関する法」には機械力制限が明記されており、事業資金中の賃金費用の割合が増大した。事業資金全体に占める賃金割合はパーペン計画では43.8%、緊急計画では38.0%、アウトバーン建設では46%、第一次ラインハルト計画に至っては70%であった[114]。
パーペン計画、緊急計画、第一次ラインハルト計画の三計画によって1935年までに50万人の雇用が生み出され[116]、さらにドイツ国鉄も4万人の職員を雇用した上に6万人を短期雇用し、さらに発注によって工業・手工業界に25万人の雇用を生み出した[117]。また郵便事業などの公社も個別に雇用を増大させている。
1933年の一年間で失業者は200万人減少したが[118]、工業雇用の回復よりも失業者数の減少が大きいなど[119]、再び生産過程に吸収されたのはその7割ほどであった。また従来失業者にカウントされていた失対労働者、農業補助者、勤労奉仕者を労働者として数えるという統計操作も行われていた[120]。しかし失業者を減少させるという社会政策的には大きな意味があり、ナチス政権の安定化に寄与した[121]。1935年以降の再軍備による軍の雇用もあり、1937年には失業者数を求人者数が上回り、ほぼ完全雇用が達成された[122]。
労働力の再配置
完全雇用は達成されたものの、業種間の労働者需要に偏りがあり、特に建築・金属の分野では熟練工が不足していた[123]。またヒトラーの志向する自給自足経済には、労働力の再配置が不可欠であった。このため政府は1934年12月29日の「熟練金属労働者配置令」、1935年2月26日の「労働手帳導入に関する法律」、1936年6月26日の「公共建築事業実施に際しての労働力需要の届け出に関する命令」など、労働力需給を国が調整するための法律を次々と制定し始めた[124]。
軍需産業の活況にともない景気が上昇することで、民間における労働力需要はますます高まった。政府は賃金を上昇させない政策を取っていたが、企業は残業時間を増やしたり、手当を増額することで給与を上げ、労働力の争奪に走った。このため政府の監視にもかかわらずじわじわと給与水準は上昇した[125]。
1938年5月からは西部国境の要塞線ジークフリート線の建設が始まったが、総工費35億マルクにのぼるこの要塞線の構築には10万人の工兵隊と、トート機関による35万人の労働奉仕者が参加し、国内の労働市場はさらに逼迫した[126]。6月22日、政府は労働力の確保のため、国策上特に重要なる任務の為の労働力需要確保令を発令し、国民に政府が求める職場での労働、もしくは職業訓練を受ける義務を課した。これにより、国民の職業選択の自由は失われた[126]。国民を最も生産的な場所に配置するために、国防評議会は全国民に国民カード目録への登録を義務づけた。国民カードは親衛隊秩序警察のクルト・ダリューゲにより管理された。行政では法務と税務を簡素化して人員を異動させ、全ての製造工場は査察を受けることとなった[127]。
各産業
農業
食糧問題の解決は、200年ほど前からのヨーロッパの関心事であった。ヒトラー政権が自給自足や農業に関心をもったのも、この流れに含まれる[注釈 12]。1933年の国勢調査では人口の約29%が農業従事者であったが、輸入食糧への依存が大きいことに加えて農地の不足で人口密度が高く、アメリカ、イギリス、フランスに比べて問題が深刻だった。農業省は保護主義によってドイツの農業を世界から隔離し、生産者には最低価格を保証し、農家の債務者を完全に保護した[注釈 13][130]。
農地不足の解決のために、政府は東欧への入植を計画した。農業省は世襲農地法によって自作農の土地保有を永久に保証し、入植問題と農家の債務問題を解決しようとした[注釈 14]。農業省は帝国食糧団(RNS)を組織し、農産物の価格と生産を統制した。これによって農業関連産業も統制し、RNSはGDPの25%、ドイツ生産者600万人、労働人口の40%を管理下に置いた。飲食物の価格を統制することで、食費が生活費の平均50%を占める各家庭への影響力も増した[132]。RNSは数々の統制を行ったが、1936年には領土内での食糧自給が不可能だと判明した。国内農地の3400万ヘクタールでは足りず、さらに700万から800万ヘクタールが必要だった。この事実がヒトラーや農業省が望む東欧侵略の計画を後押しした[133]。
国内リソースの争奪が激しくなるにつれて、農業では1938時点で作男が40万人減少し、労働力不足が深刻となった。農家の女性は地方において最も過労が激しい集団となり、1世代あたりの子供の数が33%減少した[134]。
化学産業
IGファルベンは世界有数の巨大企業であり、1920年代からIGは石油の枯渇を予想して石炭液化による合成燃料を開発したが、新たな油田の発見で損失をこうむった。IGは合成燃料を売り込むために、自給自足を求めるヒトラー政権に協力した。財務省は、IGに対する資本投資の最低5%を国が保証し、代わりにIGが年間生産量を35万トンに拡大する条件をつけた。石炭液化の設備は原油に比べると高価だったため、経済省のシャハトは石炭業をはじめとするエネルギー産業全体に協力を強要し、合成燃料工場を増設した。計画を予定通り進めるためにIGのクラウホが専門家を派遣し、フリック・コンツェルンのハインリヒ・コッペンベルクが工場建設を監督した。1930年末にはIGは20万人を雇用し、16億マルクを保有した[135]。
四カ年計画によって、IGと政権の関係はより緊密になり、IGの売り上げのほとんどを国防軍が保証した。ドイツは4年間で燃料の自給自足を実現するために合成燃料の生産量が540万トン必要だったが、1936年時点では国内必要量の34%にとどまっていた。同年には合成ゴム製造の増産が進んだ。年間投資額は1930年代不況期の1000万から1200万マルクから、1940年代初頭の5億マルクにまで増えた[136]。
鉄鋼産業
1933年以降のヒトラー政権には、クルップ、フェスタクの2社が大きく関わった[注釈 15]。フェスタクの会長であるアルベルト・フェーグラーは、石炭産業の再編計画をヒトラーに提案しつつ、競争相手の排除を狙った。フェーグラーの計画によって、ユダヤ人のパウル・ジルヴァーベルクは経営するラインブラウンを奪われて亡命に追いやられた。この功績でフェスタクは鋳造や鉱業において指導的な位置につき、子会社は軍需の恩恵を得た。その他の主な企業としてフリック、GHH、クレックナー、マンネスマン、ヘッシュ、レヒリングがある。国内の鉄鋼各社は独自技術や関連産業をもち、競争も激しく複雑な状況だった[138]。
四カ年計画では鋼鉄の確保が重要な問題となり、1936年11月には供給危機によって生産量15%カットが命じられた。輸入原材料の不足がインフレにつながることを防ぐために、価格統制を担当する大管区指導者のアドルフ・ヴァーグナーは全ての値上げを禁止した。そして1937年には市場メカニズムに代わって政府による配給制が導入された[139]。1937年には、鉄鋼生産を1930万トンから2400万トンに増産する目標が立てられた。目標のためにフェスタクと同規模の製鋼所を国有企業として建設する計画も進められた。これがヘルマン・ゲーリング国家工場であり、国内の鉄鋼脈が全て国家の管理下に置かれた[140]。国家工場は東欧への侵攻とともに多数の企業買収を繰り返し、世界最大規模のコングロマリットになる。しかし、買収によって得た企業は鉄鋼業への貢献は少なく、1941年には多くが売却された。国家工場が主導的になったのは石炭産業であり、当初の目的だった鋼鉄不足は解決されなかった[141]。
ラジオ・自動車産業
ヒトラー内閣では国民製品が構想され、主なものとしてラジオと自動車がある。宣伝省はラジオをプロパガンダのための重要な手段とみなし、ラジオメーカーに働きかけて製造を主導した。ラジオ・カルテルが形成され、1933年に国民ラジオVE301と命名された製品が発売された。VE301の価格は76マルクと平均世帯にとって高価であり、分割払いを可能にして普及を推進した。さらに1938年には35マルクの小型ラジオDKが発売され、普及率は急増した[注釈 16]。
ヒトラーは、一家が一台乗用車を保有できるという国民車構想を1934年に発表し、価格を1200マルクとした。しかし、当時のドイツにとって自動車は高級品であり、輸入に頼っている燃料も高価だった。もっとも低価格を実現したオペルのP4も1450マルクであり、1200マルクという構想は自動車業界の反発を招いた[注釈 17]。営利目的では国民車は不可能だったが、ヒトラーはフェルディナンド・ポルシェのチームに研究させ、ドイツ国民車準備会社で製造した。フォルクスワーゲン・タイプ1 は990マルクを目標価格として予約販売を始めたが、大半のドイツ人には依然として高価であり、ヒトラーが目標としたブルーカラー労働者の見込み顧客は5%にとどまった。さらに1939年の開戦によって民間車の生産は止まり、ナチス・ドイツ時代にフォルクスワーゲンを得た者はいなかった[145]。
航空機産業
ヒトラー政権下において最も急成長した産業部門が航空機産業だった。1932年は航空機産業の雇用者は3200人、航空機の年間製造数は100機未満だった。その後約10年で、雇用者数は25万人、年間製造数は1万機以上となった。航空機を製造したのはユンカース、アラド、ハインケル、ドルニエ、フォッケウルフ、メッサーシュミットの6社で、いずれも1933年以降に急成長した。ユンカースの他は航空省と次官のエアハルト・ミルヒが主導して国家資金で作られた企業であり、民間企業ではあったが軍備以外の需要はなかった。ユンカースの創設者であるフーゴー・ユンカースは反逆罪で逮捕され、国家がユンカースを収用することを同意させられた。他に直接製造に関与した企業として、フリック・コンツェルン、ドイツ船舶機械工学、ヘンシェル、ブローム・ウント・フォスがある[注釈 18][147]。航空機の増産においては、アメリカで考案された科学的管理法が導入された[148]。
貿易
年 | 四半期 | 輸入 | 輸出 | 貿易収支 |
---|---|---|---|---|
1929年 | 1 | 3,354.9 | 3,054.7 | -300.2 |
2 | 3,465.1 | 3,476.6 | 11.5 | |
3 | 3,338.8 | 3,487.3 | 148.5 | |
4 | 3,288.0 | 3,464.4 | 276.4 | |
1930年 | 1 | 3,171.0 | 3,222.0 | 51.0 |
2 | 2,533.0 | 2,983.0 | 450.0 | |
3 | 2,440.0 | 2,923.0 | 483.0 | |
4 | 2,249.0 | 2,908.0 | 659.0 | |
1931年 | 1 | 1,919.0 | 2,420.0 | 501.0 |
2 | 1,885.0 | 2,348.0 | 463.0 | |
3 | 1,464.0 | 2,465.0 | 1001.0 | |
4 | 1,459.0 | 2,366.0 | 907.0 | |
1932年 | 1 | 1,251.7 | 1,605.4 | 353.7 |
2 | 1,142.7 | 1,382.4 | 239.7 | |
3 | 1,057.0 | 1,302.6 | 244.7 | |
4 | 1,214.1 | 1,448.0 | 233.9 | |
1933年 | 1 | 1,077.0 | 1,190.0 | 113.0 |
2 | 1,011.0 | 1,188.0 | 177.0 | |
3 | 1,044.0 | 1,230.0 | 186.0 | |
4 | 1,072.1 | 1,263.0 | 191.0 | |
1934年 | 1 | 1,147.4 | 1,094.3 | -53.1 |
2 | 1,152.8 | 991.9 | -160.9 | |
3 | 1,056.7 | 1,005.4 | -51.3 | |
4 | 1,094.1 | 1,075.3 | -18.8 | |
1935年 | 1 | 1,139.7 | 967.0 | -162.7 |
2 | 1,008.7 | 995.0 | -13.7 | |
3 | 965.3 | 1,099.7 | 134.4 | |
4 | 1,055.0 | 1,208.0 | 153.0 | |
1936年 | 1 | 1,052.9 | 1,134.2 | 81.3 |
2 | 1,058.4 | 1,107.7 | 49.3 | |
3 | 1,027.6 | 1,215.8 | 188.2 | |
4 | 1,079.2 | 1,310.5 | 231.3 | |
1937年 | 1 | 1,092.7 | 1,285.2 | 192.5 |
2 | 1,433.7 | 1,431.3 | -2.4 | |
3 | 1,443.4 | 1,565.8 | 122.4 | |
4 | 1,498.5 | 1,628.8 | 130.3 | |
1938年 | 1 | 1,399.0 | 1,360.0 | -39.0 |
2 | 1,482.0 | 1,354.0 | -128.0 | |
3 | 1,476.0 | 1,375.0 | -101.0 | |
4 | 1,592.0 | 1,449.0 | -143.0 | |
1939年 | 1 | 1,445.8 | 1,333.4 | -112.4 |
2 | 1,285.5 | 1,459.9 | 174.4 |
世界恐慌以降の貿易低調により、ナチス・ドイツ時代を通じて貿易額は恐慌以前より低い水準であった。ナチス・ドイツ時代を通じて輸入は1938年第四四半期の15.92億マルク、輸出は1937年第四四半期の16.288億マルクが最高であり、いずれも1930年の水準の半分以下であった[150]。ただし世界貿易に占めるドイツ貿易の割合は1929年とほぼ変わりない水準を維持している[151]。
ドイツが必要とする輸入品には、食料となる豚や牛などの家畜や飼料、繊維産業の輸入綿・羊毛、そして再軍備に欠かせない鉄鉱石、石油、ゴムなどだった。これらを輸入するために堅調な輸出が必要だったが、金本位制崩壊と保護主義によって貿易は不振であり、1933年のドイツの外貨保有高は1ヶ月分の輸入量にすぎない4億マルクまで減っていた[152]。
ドイツ最大の貿易相手は恐慌以前からアメリカであったが、1930年代以降その割合は急速に低下した。1938年の時点で対米輸出はわずか2.8%まで低下している。同様にイギリス・フランスとの通商関係も悪化していき、かわって北欧(特にスウェーデン)、東南欧、中南米の比重が高まった。特にルーマニアは産油国として重要だった[注釈 20][151]。シャハトは二国間主義によってこれらの国との通商関係を構築したが、それはアメリカのコーデル・ハル国務長官の多国間主義的貿易自由化政策と対立するものであった[154]。しかしシャハトの貿易拡大路線はヒトラーやゲーリングが志向する自給自足経済と異なっており、シャハトの失脚にもつながった[55]。1939年にはドイツはヨシフ・スターリン政権のソヴィエト連邦とヒトラー=スターリン条約を結び、ソ連はドイツの主要な輸入先となり、貿易額は6億から7億マルクと定められて独ソ開戦まで続いた[注釈 21][155]。
1930年代末には、マルクは貿易の指標となる価値を失い、貿易レートは市場システムではなく政治判断で決められるようになった。貿易におけるマルクの購買力は、商品と地域によって決められた[注釈 22]。このためマルクの切り下げ論争も混乱した[156]。イギリスとフランスは、アメリカからの支援が得られるという保証によってドイツと対立した。1938年には英米貿易協定が結ばれ、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト政権はイギリスやフランスへの武器供与も可能とした。1939年のドイツによるチェコスロバキア占領を受けて、アメリカはドイツからの輸入品に25%の関税を課し、政府はこれを宣戦布告に等しいとみなした[157]。
- 外貨
ドイツは金本位制を保持していたが、海外でのマルクの実勢レートはかなり低下していた[158]。外貨不足は健全な貿易を大きく阻害した。さらに世界恐慌以降の世界的な貿易停滞は外貨獲得の機会を減少させた。外資不足を改善するため、ヴァイマル政府は外貨管理、輸入制限、外国債務の元利支払い停止などの政策を打っていたが、外貨増収には至らなかった。このため輸出振興策として1932年に追加的輸出手続(ZAV)制度を採用した。これは輸出業者が輸出代金の一部として、ドイツの対外債権を外国市場から買い入れ、国内の債務者に売り渡すことを認めたものである。対外債権は海外で安く取引されており、債務者に売ることで輸出業者は利益を得ることが出来た[159]。この他にも様々な外貨使用削減の方策がとられており、シャハトの証言によると、ドイツ貿易の80%は交換・清算・補償などで決済されており、自由な貿易は20%以下であった[160]。
外貨不足を補うため、外債の利子送金を停止する計画を建てた。これに債権国は反発し、輸出超過再建の差し押さえを行うなど、貿易関係でも摩擦が続いていた[161]。また軍備拡大に伴って原料輸入が増大することで工業製品の生産コストが上がり、輸出が不振となったため、ヴァイマル時代からの外貨不足はますます深刻となった[31]。1934年1月時点での貿易赤字は2200万マルク、12月には4500万マルク、翌1935年1月には1億500マルクと増加する一方であった[162]。外貨準備もこれに伴って減少し、1934年6月には1億マルクを割り込む危険水域に突入した[17]。1934年9月にシャハトが状況を打開する貿易管理政策として新計画を策定したが、あくまで一時的なものであった。新計画の骨子である補助金による輸出奨励はダンピングととられる恐れがあり、食糧事情が逼迫する中で輸入の抑制を長く続けられるものではなかった[163]。
1935年3月にシャハトは、ZAVの手続きを簡略化するかわりに輸出促進補助金の資金を経済集団から「自発的に」拠出させる法律[164]を制定したが、拠出金を負担する企業は価格に転嫁することも出来ずに苦しんだ。シャハトは国庫から拠出するよう望んだが、クロージク財務相が拒否した[165]。しかしこの補助金政策によって、輸出価格を安く抑えることが出来たため、輸出増加に一定の効果があった[166]。
外貨準備は1935年に一時的に1億マルクを超えたものの、概して低水準であった[17]。また1936年秋に金ブロック諸国が金本位制から離脱したこともあって、ドイツの交易条件はさらに悪化した[167]。さらに四カ年計画の産業保護政策により、国内製造業がリスクのない国内取引を選択し、輸出を志向しないという事態も発生した[168]。さらに四カ年計画の責任者ゲーリングは自給自足体制を重視したため、外貨獲得に熱心ではなかった[55]。このためドイツの外貨準備は改善されず、平均7600万マルクの低水準であった[17][注釈 23]。1938年には外貨準備の枯渇が予想され、1939年1月にはライヒスバンクは外貨準備や外国為替準備が存在しないとヒトラーに報告した。政府は再軍備を一部放棄して鋼鉄などを輸出し、軍への配給量を削減した[169]。
南東欧 | エジプト トルコ 中近東 |
中南米 | 北欧 | 計 | 西欧 | イギリス | アメリカ | その他 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1929年 | 3.8 | 1.4 | 11.4 | 7.3 | 23.9 | 15.7 | 6.4 | 13.3 | 40.7 | 76.1 |
1932年 | 5.0 | 2.5 | 9.6 | 6.4 | 23.5 | 15.1 | 5.5 | 12.7 | 43.2 | 76.5 |
1935年 | 7.7 | 3.8 | 13.1 | 9.9 | 34.5 | 14.1 | 6.2 | 5.8 | 39.4 | 65.5 |
1938年 | 9.8 | 3.8 | 14.9 | 11.4 | 39.3 | 11.9 | 5.2 | 7.4 | 35.8 | 60.1 |
南東欧 | エジプト トルコ 中近東 |
中南米 | 北欧 | 計 | 西欧 | イギリス | アメリカ | その他 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1929年 | 4.3 | 1.4 | 7.3 | 10.2 | 23.2 | 26.2 | 9.7 | 7.4 | 33.5 | 76.8 |
1932年 | 3.5 | 1.3 | 4.1 | 9.4 | 18.3 | 31.9 | 7.8 | 4.9 | 37.1 | 81.7 |
1935年 | 5.9 | 3.4 | 9.1 | 11.4 | 29.8 | 26.1 | 8.8 | 4.0 | 31.3 | 70.2 |
1938年 | 10.3 | 5.4 | 11.7 | 12.9 | 40.3 | 20.8 | 6.7 | 2.8 | 29.4 | 59.7 |
税制
財務相クロージクはナチス・ドイツの租税政策として、税の社会的公平・税による人口政策の保護・租税立法の範囲内における人格的価値・経済的・社会的関係の考慮をあげていた[171]。戦前からドイツでは一人あたり税負担が高く、個人所得税の大幅な増税はなかった。代わりに利潤や高所得者への税率を引き上げた[172]。
- 子女控除
1934年10月16日に制定されたライヒ所得税法で既婚者や子女を持つ家庭は優遇され、8000マルク以上の高額所得者や独身者などには負担が増えることになった[173]。1938年の改正により、既婚者の所得税緩和が行われる一方で、教会税の控除制限やユダヤ人家庭に対する子女控除の除外が行われた。1939年の改正では結婚後5年を経ても子女を持たない既婚者と独身者の差別化が果たされた[174]。ナチ党の思想による民族共同体内では民族の平準化が行われるが[8]、共同体に属さないユダヤ人やスラブ人に対しては徹底的な差別を行うものであった[175]。このため戦時に突入するとポーランド人、ロマに対しては子女控除は認められなくなった[176]。
- 燃料税
ドイツはIGファルベンによって合成燃料が進められ、輸入石油には課税されて重要な財源となった。1936年には輸入石油への課税は4億2100万マルクで全税収の30%だった。1936年12月以降は、財政の逼迫によって国内生産の燃料にも課税されるようになった[177]。
- 税控除
1939年の新財務計画により、政府に財やサービスを納入する業者は、支払額の40%以上を現金の代わりに税控除として受け取ることが定められた。この控除は実質的には低利融資の強制だったが財政難の解決にはならなかった[178]。
対外債務
当時のドイツは債務国であり、公的・民間をあわせた対外債務は1933年2月28日の段階で187億2千万マルクに達していた[179]。対象国はアメリカが40%を占め、次いでオランダとスイスの順であった[180]。この膨大な債務は1931年のスターリング・ポンドの切り下げと、1933年春のアメリカ合衆国ドル切り下げによって1933年中に42億マルク減少し、1940年9月末の時点では1933年から比べて96億マルク減少している[181]。
政府は1933年6月に対外債務返済の停止を決定した。対外債務はマルクで返済は続けるが、マルクは外貨に替えられなかった。外貨による返済再開はドイツの貿易黒字が健全になるまで延期とされ、債権国が返済を望むならドイツ製品を輸入しなければならないことを意味した。この決定はアメリカ・イギリス・フランスを中心とする各国や資本家の反感を呼んだが、米英仏の3ヶ国は経済政策で分裂しておりドイツ対策で協調ができなかった[152]。
軍備経済
ナチ党はヴェルサイユ条約の破棄を主張しており、ヒトラーも1933年2月3日にハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長宅で開かれた会談(de:Liebmann-Aufzeichnung)において、国防軍首脳に再軍備を約束していた[6][7]。1933年の予算では軍事費は激増こそはしなかったものの、ドイツ航空省を設置して空軍の創設準備を開始していた。また雇用計画である緊急計画の費用のうち1億9千万マルクを始めとして、雇用創出費用の一部を再軍備費として流用することには、ヒトラー自身の強いリーダーシップがあった[182][183]。また自動車産業の育成や、民間施設への地下防空壕建設など、軍事費には含まれないものの準軍事的な政策も多く見られる[184]。8月1日には軍備計画が立てられ、1939年10月1日の時点で平時軍83万人、戦時軍462万人(野戦軍102個師団をふくむ)の編成を目標としていた[185]。
一方で雇用問題が一段落した1935年5月21日にはシャハトが戦争経済全権に就任しているなど、将来の戦争計画も明らかにしている。軍事費は1933年度の7億2千万マルクから1934年度には33億マルクと大幅に増額し[186]、以降も増大を続けた。第二次四カ年計画が始まった1936年には前年比から倍増し、一つの画期となった[187]。
これらの事情から研究者での間では、雇用問題が解決されてから軍備増強が本格化されたという二段階説[注釈 25]と、政権獲得後から軍備が継続されていたという一段階説[注釈 26]がある。増大する軍事費で重要な位置を占めたのがメフォ手形であり、1933年から1937年までの軍事費総計324億マルクの内、メフォ手形によって捻出されたのは3分の2に近い204億マルクであった[188]。1941年に海軍財政局は1933年以降の状態を回顧して、困難がなかったわけではないが、「(資金は)常にほとんど無制限に提供された」としている[189]。
再軍備宣言が行われ、第二次四カ年計画期に入ると軍事準備は公然化した。1936年にフロムが作成した予測では、国防軍の支出は1939年から1942年にかけて年間300億マルク増加する見通しとなった[注釈 27][191]。1935年から1938年までの総生産増加分の約47%が軍事支出にあたり、これに再軍備優先の投資を加えると67%となる。1935年の国家の購入による財とサービスの70%は国防軍であり、1938年には80%に増えた[192]。
しかしドイツ経済の抱える資源不足や労働者不足は軍備の分野でも問題となっていた。四カ年計画の責任者でもあり、空軍司令官であるゲーリングは空軍に対する資源割り当てを増やす傾向があり、海軍や陸軍との間で熾烈な資源争奪戦が行われた。ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相はヒトラーの調停を求め、1937年11月3日に軍首脳とヒトラーによる秘密会議が開催された[185]。しかしこの席でヒトラーは、食糧問題や原料問題を解決するための領土拡張政策を強く主張した。具体的には、1938年から1945年の間に好機が訪れれば、チェコスロバキアやオーストリアに対して軍事活動を起こすことを表明したが、陸軍や海軍は難色を示した。この後、ブロンベルク国防相や陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュはナチ党の策動によるスキャンダルで失脚させられ(ブロンベルク罷免事件)、国防軍も完全にナチ党勢力下に入った。その後も党機関や各軍の資源・労働力争奪戦はやまず、効率的な軍拡は行われなかった。1938年になると財政状態が危機を迎えたため、予定されていた予算が初めて実行されないという事態を迎え[193]、12月には国防軍最高司令部が軍事費の抑制を各軍に呼びかけている[193]。第二次世界大戦開始時の航空機生産はイギリスと同程度、戦車にいたってはイギリス以下であった[194]。
軍需省 | 陸軍 | 海軍 | 空軍 | 計 | メフォ手形 | 計 | 国民所得中の 軍備支出割合 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1932年 | - | 457 | 173 | - | 630 | - | 630 | 1.3% |
1933年 | - | 478 | 192 | 76 | 746 | - | 746 | 1.5% |
1934年 | 3 | 1,010 | 297 | 642 | 1,952 | 2,145 | 4,097 | 7.8% |
1935年 | 5 | 1,392 | 339 | 1,036 | 2,772 | 2,715 | 5,487 | 9.3% |
1936年 | 128 | 3,020 | 448 | 2,225 | 5,821 | 4,452 | 10,273 | 15.7% |
1937年 | 346 | 3,990 | 679 | 3,258 | 8,273 | 2,688 | 10,961 | 15.0% |
1938年 | 452 | 9,137 | 1,632 | 6,926 | 17,247 | - | 17,247 | 21.0% |
1939年 | 258 | 5,611 | 2,095 | 3,942 | 11,906 | - | 11,906 | - |
1934-1938合計 | 1,192 | 24,160 | 5,491 | 17,128 | 47,971 | 12,000 | 59,971 | - |
ドイツ | イギリス | フランス | イタリア | 日本 | |
---|---|---|---|---|---|
1929-1930年 | 6.5 | 14.6 | 22.0 | 25.2 | 36.1 |
1933-1934年 | 12.6 | 13.9 | 22.7 | 21.4 | 38.7 |
1936-1937年 | 67.0 | 24.1 | 29.9 | 53.6 | 48.7 |
統計
総生産 | 投資財 | 消費財 | 機械 | 乗用車 | 紡績 | 銑鉄 | 粗鋼 | 石炭 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1928年 | 98.6 | 97.1 | 103.1 | 99.1 | 109.8 | 108.2 | 89.0 | 89.0 | 92.1 |
1929年 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 |
1930年 | 85.9 | 81.6 | 94.0 | 82.4 | 72.4 | 97.4 | 73.0 | 71.0 | 87.0 |
1931年 | 67.6 | 52.6 | 89.2 | 59.0 | 51.3 | 94.9 | 45.7 | 51.0 | 72.5 |
1932年 | 53.3 | 34.4 | 76.3 | 39.2 | 31.4 | 86.6 | 29.6 | 35.5 | 64.0 |
1933年 | 60.7 | 43.6 | 82.6 | 46.8 | 65.5 | 98.1 | 39.7 | 46.6 | 67.0 |
1934年 | 79.8 | 72.6 | 92.4 | 62.5 | 104.9 | 106.8 | 65.9 | 73.0 | 76.3 |
1935年 | 94.0 | 99.4 | 88.2 | 82.1 | 149.4 | 98.5 | 91.2 | 101.1 | 87.5 |
1936年 | 106.3 | 113.2 | 98.7 | 98.7 | 177.6 | 106.5 | 115.2 | 118.1 | 96.6 |
1937年 | 117.2 | 124.4 | 104.6 | 119.6 | 214.4 | 108.1 | 120.2 | 122.1 | 112.9 |
1938年 | 127.6 | 142.3 | 114.9 | 138.3 | 187.3 | 115.8 | 143.5 | 148.0 | 116.5 |
租税収入 | 財政支出 | 赤字 | 公債残高 | 短期債残高 | 雇用創出債残高 | メフォ手形残高 | 中長期債残高 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1932年 | 64.2 | 73.2 | 9.0 | 123.9 | 11.0 | - | - | 112.9 |
1933年 | 59.9 | 84.3 | 24.4 | 139.5(+15.7) | 29.6(+18.6) | 14.4(+14.4) | - | 110.0(-2.9) |
1934年 | 80.6 | 106.6 | 26.0 | 159.8(+20.3) | 56.2(+26.7) | 14.9(+10.5) | 21.5(+21.5) | 103.6(-6.4) |
1935年 | 90.7 | 139.0 | 42.0 | 201.8(+42.0) | 84.7(+28.5) | 11.3(-3.6) | 48.6(+27.2) | 117.1(+13.5) |
1936年 | 115.5 | 173.5 | 58.0 | 258.9(+57.1) | 120.4(+35.7) | 7.6(-3.7) | 93.1(+44.5) | 138.5(+21.4) |
1937年 | 140.3 | 194.3 | 54.0 | 312.8(+53.9) | 143.0(+22.7) | 3.8(-3.8) | 120.0(+26.9) | 169.8(+31.3) |
1938年 | 177.3 | 283.3 | 105.0 | 417.8(+105.0) | 180.2(+37.2) | 0(-3.8) | 119.0(-1.0) | 237.7(+67.9) |
国民総支出 | 個人消費 | 政府部門 | 軍事支出 | 道路鉄道投資 | その他公共投資 | 民間設備投資 | 工業投資 | 住宅建築 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1928年 | 894 | 639(71.5) | 103(11.5) | 8.3 | 22.3 | 41.8 | 71.6(8.0) | 26.2 | 15.0 |
1932年 | 568 | 471(82.9) | 56(9.9) | 6.2 | 8.1 | 11.7 | 22.0(3.9) | 4.4 | 6.1 |
1933年 | 587 | 475(80.9) | 63(10.7) | 7.2 | 12.4 | 11.9 | 25.7(4.4) | 5.6 | 6.9 |
1934年 | 661 | 500(75.6) | 92(13.9) | 33.0 | 16.9 | 17.7 | 36.7(5.6) | 10.6 | 10.8 |
1935年 | 733 | 521(71.1) | 125(17.1) | 51.5 | 18.8 | 20.1 | 47.4(6.5) | 16.4 | 13.4 |
1936年 | 814 | 523(64.3) | 169(20.8) | 90.0 | 21.4 | 20.8 | 61.9(7.6) | 21.6 | 20.3 |
1937年 | 915 | 571(62.4) | 204(22.3) | 108.5 | 24.0 | 22.2 | 69.1(7.6) | 28.4 | 19.2 |
1938年 | 1,020 | 606(59.4) | 262(25.7) | 155.0 | 33.8 | 21.5 | 80.8(7.9) | 36.9 | 19.0 |
注釈
- ^ 創設当時は兵器・弾薬省、1943年以降は軍需・軍事生産省
- ^ ただし、この時点においても政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点でのナチ党財政の大半は党費収入によるものであったとヘンリー・アシュベイ・ターナーは指摘している。ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)2巻 ISBN 978-4087601817、95p
- ^ 1933年から1938年比。ただし、この間有数の石炭産出地ザール地方とオーストリアが領土に加わっている[62]。
- ^ 1938年度の軍備費支出は、1937年度の1.58倍、政府支出の50%に達していた[69]。
- ^ 当初は「経済のアーリア化」という語が主に使われていたが、1939年3月以降には脱ユダヤ化に統一された[82]。
- ^ ヒトラーやカイテルは、時間がたつほどドイツが不利になる事実を理解していたが、その事実は開戦を早める根拠として使われた[96]。
- ^ 女性で最も低い時給は繊維や食品工業の42-45ペニヒで、ホワイトカラー女性の年収は男性の約半分だった[98]。
- ^ 飲食物は、必需品の黒パン1キログラムが31ペニヒ、ジャガイモが5キログラム50ペニヒ、ベーコン1キログラムは2マルク14ペニヒ、乳製品はいずれも高価だった[99]。
- ^ R.J.Overy, War and Economy in the Third Reich(Oxford/New York,1994)のP.39よりの引用。[103]
- ^ Bry,G.,Wages in Germany P239、327、塚本健『ナチス経済』273pよりの引用。[104]
- ^ ラインハルトは当時の財務省次官フリッツ・ラインハルトからとられたものである。
- ^ 世界各地からの食糧輸入によってヨーロッパでは飢餓が減りつつあったが、第一次世界大戦では経済封鎖が原因の栄養失調によってドイツとオーストリアで60万人が死亡した[128]。
- ^ 1933年には農相にナチ党農業組織長のリヒャルト・ヴァルター・ダレ、次官にヘルベルト・バッケが就任した。農業省は経済政策省庁の中でナチ党員が長をつとめる唯一の省庁となり、バッケは1940年代にヒムラーに協力して虐殺を指導する[129]。
- ^ 世襲農地を持てるのは、ドイツ人かそれに類似した血統とされ、財産法に人種差別が含まれていた。また、世襲農地の相続権では女性が最下位に置かれた[131]。
- ^ クルップ社のグスタフ・クルップはナチ党から自社を守るために、ドイツ労働組合との協力も検討したが、労働運動はナチ党によって解体された。フェスタクのフリッツ・ティッセンは熱心なヒトラー支持者で、イタリアのファシスト党による協調組合主義にも感化されていた[137]。
- ^ 国民ラジオと同性能のアメリカ製ラジオはより低価格であり、国民ラジオには国際的な競争力はなかった[142][143]
- ^ オペルはゼネラルモーターズの子会社であり、アメリカのフォード社が確立した科学的管理法によるフォーディズムを最初にドイツに導入した[144]。
- ^ ユンカース、ドルニエ、ハインケルが爆撃機、アラドとハインケルが戦闘機・偵察機・対地攻撃機・練習機、メッサーシュミットが戦闘機を供給した[146]。
- ^ German Exchange Control 1931-1939 in ; TheQuarterly of Economics, Vol.54,No.4,Part 2,1940,p.140よりの引用[149]。
- ^ 1939年3月にはドイツ=ルーマニア貿易協定が結ばれ、ドイツ国内では絶賛された。しかしルーマニア側はドイツを警戒しており、安全保障をフランスに交渉していた[153]。
- ^ ソ連は主な飼料の輸入先となった。1940年のソ連は、リン鉱石(47%)、アスベスト(67%)、クロム鉱石(65%)、マンガン(55%)、ニッケル(40%)、石油(34%)をドイツから得た[155]。
- ^ たとえば綿花輸入は、エジプトからは市場価格に近く、英領インドからは15%増し、アメリカからは28%増しだったが、ブラジルとペルーには47%と72%のプレミアムをつけた[156]。
- ^ イギリスの歴史家ティモシー・メイソンなどは、外貨不足がアンシュルスやズデーテン併合、ポーランド侵攻などの冒険的政策の決定的要因になったという見方をしている。この結果、ライヒスバンク保持分以外にオーストリアやチェコスロバキアの政府、さらに個人備蓄分を接収したため、1930年代末のドイツ外貨準備は危機的な状況ではなかったとするアルブレヒト・リッチェル)やラルフ・バンケン(Ralf Banken)の説もある[17]。
- ^ V.z.K. 14 Jahrg 1939/40 Heft 1,S.75,S.77 塚本健『ナチス経済』230pよりの引用。[170]
- ^ 主な論者にゲルハルト・クロル、アブラハム・バルカイ、ミハエル・ウォルフゾーン、ユルゲン・シュテルツナー(Jürgen Stelzner)、リチャード・オーバリー、バートン・クライン(Burton Klein)、後藤俊明、原信芳。またニュルンベルク裁判でシャハトもこの路線の発言をしている。
- ^ 主な論者にヴォルフガング・ザウアー、ヴォルフラム・フィッシャー、ロッテ・ツムベ(Lotte Zumpe)、大島通義がいる。
- ^ 内訳は、陸軍が4年で490億マルク、空軍が4年で600億マルク、海軍が10年で330億マルクだった[190]。
- ^ Kroll,G.,ibid S 571.(Europa Archiv, 20. 6. 1951, S 4129)塚本健『ナチス経済』250pよりの引用。[195]
- ^ Schnejerson,A.I., Die Unterordung des bürgerlichen Staates unter die Monopole, S. 50.塚本健『ナチス経済』250pよりの引用。[196]
- ^ L.o.N Monthly Bulletim Statistics 1938, No12 p.584-588、塚本健『ナチス経済』297pよりの引用。[197]
- ^ Erbe,a.a.O.,S.34,48,51,54. P239、327、戸原四郎『恐慌論』323pよりの引用。[44]。短期債残高には雇用創出債の金額も含む。
- ^ Erbe,a.a.O.,S.100,109、戸原四郎『恐慌論』322pよりの引用。[186]。政府部門支出は軍事支出、民間設備投資は工業投資も含む
- ^ 占領地のフランスでは自動車が使われなくなり、同盟国のイタリア海軍はドイツとルーマニアからの石油に依存していた。ドイツ空軍はパイロットの教練が不足し、陸軍では走行経験の少ない兵士の運転が増えて損傷率が高まった[201]。
- ^ スターリンの五カ年計画によってソ連は工業化を進め、生産力はドイツの2300万トンにつぐ1800万トンでイギリスよりも多かった。人口は1億7000万人でドイツの(8376万人)の2倍近く、兵員数で上回っていた。加えて国土が広く、進軍が困難だった[203]。
- ^ 合理化が成功したのは、シュペーアではなくエアハルト・ミルヒが担当する航空省であり、航空機生産は1942年から1943年にかけて倍増した[226]。
- ^ ただし、イタリア休戦後のイタリア人はソ連人とほぼ同じ扱いを受けた。
- ^ Das Militärgeschichtliche Forschungsamt (Hrsg.),Das Deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg, Bd.5, Organisation und Mobilisierung des deutschen Machtbereichs, Erster Halbband Kriegsverwaltung, Wirtschaft und personelle Ressouren 1939-1941 von B.R.Kroener, R.F.Müller, H.Umbreit, Stuttgart 1988, S.523.よりの引用。[251]
- ^ 毎年ごとにその時点でドイツ領土とされていた地域内で達成されたものを基礎とする。Das Militärgeschchilice Forshungsamt, a.a.O., S.582.よりの引用。[230]
出典
- ^ 村上 2006, pp. 87, 89.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 330–334.
- ^ 井代 1973, pp. 145–146.
- ^ 井代 1972, p. 146.
- ^ 三ツ石 2006, p. 50.
- ^ a b c 川瀬 2005, p. 30.
- ^ a b トゥーズ 2019, p. 233.
- ^ a b 高橋 2010, p. 129.
- ^ 後藤 1982, p. 85.
- ^ トゥーズ 2019, p. 44.
- ^ a b 中重 2006, pp. 54–55.
- ^ 村上 2006, p. 73.
- ^ a b c 中重 2006.
- ^ 井代 1972, p. 143.
- ^ 中村 1990, p. 103.
- ^ 三ツ石 2009, p. 50.
- ^ a b c d e 三ツ石 2009, p. 49.
- ^ 原 & 1987-5, p. 27.
- ^ 村上 2006, p. 61.
- ^ 中村 1990, p. 115.
- ^ a b 村上 1993, p. 64.
- ^ 柳澤 2010, p. 163.
- ^ 柳澤 2010, p. 170.
- ^ 柳澤 2007, pp. 4–5.
- ^ 柳澤 2007, p. 7.
- ^ a b c 村上 2006, p. 65.
- ^ 川瀬 2005, p. 29-30.
- ^ 川瀬 2005, p. 28.
- ^ 中村 1993, p. 66.
- ^ 中村 1993, pp. 66–68.
- ^ a b c d e 中村 1994, p. 5.
- ^ 村上 2006, p. 68.
- ^ 川瀬 2005, pp. 33–34.
- ^ 中村 1993, p. 63.
- ^ 川瀬 2005, p. 39.
- ^ a b 相沢 1982, p. 540.
- ^ 中村 1993, pp. 68–69.
- ^ 村上 2006, pp. 68–69.
- ^ 村上 2006, p. 72.
- ^ 原 & 1987-5, pp. 36–37.
- ^ 原 & 1987-9, p. 118.
- ^ 原 & 1987-5, pp. 37–38.
- ^ 原 & 1987-5, pp. 38–40.
- ^ a b 村上 2006, p. 76.
- ^ 川瀬泰史 1995, p. 52.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 61–63.
- ^ 村上 2006, p. 77.
- ^ 大島 1986, p. 71.
- ^ 三ツ石 2006, p. 2.
- ^ a b 三ツ石 2006, p. 6.
- ^ 三ツ石 2006, p. 14.
- ^ a b 堀内 2006, p. 49.
- ^ 中村 1994, pp. 5–6.
- ^ a b 中村 1994, p. 4.
- ^ a b c 三ツ石 2009, p. 71.
- ^ 村上 2007, p. 73-74.
- ^ 村瀬 1975, p. 366.
- ^ 工藤 2008, p. 63.
- ^ a b c 工藤 2008, p. 64.
- ^ 柳澤 2010, p. 4.
- ^ 堀内 2006, pp. 57–58.
- ^ a b 村瀬 1975, p. 365.
- ^ 山口 1976, p. 185.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 291–292.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 242–246.
- ^ 村瀬 1968, p. 225.
- ^ 村瀬 1975, p. 362.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 337–338.
- ^ 大島 1986, p. 87.
- ^ 大島 1986, p. 83.
- ^ 大島 1988, pp. 24–25.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 334–335.
- ^ 村瀬 1975, pp. 362–363.
- ^ 加藤 2006, p. 91.
- ^ 加藤 2006, p. 90-91.
- ^ 大島 1988, p. 26.
- ^ 大島 1988, p. 29.
- ^ 中村 1994, pp. 10–11.
- ^ a b トゥーズ 2019, pp. 278–280.
- ^ a b 木畑 1983, p. 12.
- ^ 山口 1976, pp. 166–167.
- ^ 山本 2002, p. 53.
- ^ a b 山本 2005, p. 26.
- ^ トゥーズ 2019, p. 312.
- ^ 山本 2002, p. 60.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 312–314.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 310–312.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 310–314.
- ^ 山本 2003, p. 99.
- ^ a b トゥーズ 2019, p. 315.
- ^ 山本 2003, pp. 103–105.
- ^ 山本 2003, p. 118.
- ^ 山本 2005, p. 24.
- ^ 山本 2003, p. 57.
- ^ a b トゥーズ 2019, pp. 292–294.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 381–382.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 351, 369.
- ^ a b トゥーズ 2019, pp. 161–162.
- ^ トゥーズ 2019, p. 162.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 162–162.
- ^ トゥーズ 2019, p. 161.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 169-.
- ^ 川瀬 2005, p. 26.
- ^ 村上 2006, p. 69.
- ^ 原 & 1987-5, p. 23-24.
- ^ 原 & 1987-5, p. 24.
- ^ 後藤 1982, p. 209.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 50–52.
- ^ 原 & 1987-5, p. 41.
- ^ 原 & 1987-5, p. 42.
- ^ 原 & 1987-5, p. 42-43.
- ^ 原 & 1987-5, p. 43.
- ^ 村上 2007, p. 83.
- ^ a b 原 & 1987-5, p. 32.
- ^ 原 & 1987-5, p. 30.
- ^ 原 & 1987-5, p. 34.
- ^ 原 & 1987-5, p. 35.
- ^ 原 & 1987-9, p. 109.
- ^ 原 & 1987-9, p. 111.
- ^ 中村 1990, p. 117.
- ^ 原 & 1987-9, p. 120.
- ^ 川瀬 2005, p. 25.
- ^ 中村 1994, p. 2.
- ^ 中村 1994, p. 3.
- ^ 村上 2007, p. 77.
- ^ a b 中村 1994, p. 13.
- ^ トゥーズ 2019.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 189–190.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 193, 197.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 190–193.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 207–208.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 207–213.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 222–223.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 297–299.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 130–135.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 255–259.
- ^ トゥーズ 2019, p. 137.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 136–140.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 260–262.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 265–268.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 267–270.
- ^ トゥーズ 2019, p. 169.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 168–169.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 173.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 170–178.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 144–145.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 142–146.
- ^ トゥーズ 2019, p. 284.
- ^ 三ツ石 2019, p. 51.
- ^ 三ツ石 2009, p. 51.
- ^ a b 三ツ石 2009, p. 69-70.
- ^ a b トゥーズ 2019, pp. 57–61.
- ^ トゥーズ 2019, p. 349.
- ^ 三ツ石 2009, p. 70.
- ^ a b トゥーズ 2019, pp. 362–363.
- ^ a b トゥーズ 2019, pp. 301–302.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 346–347.
- ^ 三ツ石 2008, p. 51.
- ^ 三ツ石 2009, pp. 50–51.
- ^ 三ツ石 2009, p. 57.
- ^ 村上 2006, p. 83.
- ^ 三ツ石 2009, p. 56.
- ^ 三ツ石 2009, pp. 53–54.
- ^ 三ツ石 2009, pp. 56–58.
- ^ 三ツ石 2009, p. 58.
- ^ 三ツ石 2009, p. 69.
- ^ 三ツ石 2009, p. 66.
- ^ 堀内 2006, pp. 48–49.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 340–342.
- ^ 村上 2007, p. 92.
- ^ 高橋 2007, p. 186.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 559.
- ^ 高橋 2007, pp. 186–187.
- ^ 高橋 2007, p. 187.
- ^ 高橋 2007, p. 188.
- ^ 高橋 2010, p. 137.
- ^ トゥーズ 2019, p. 172.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 339–340.
- ^ 加藤 2012, p. 26.
- ^ 加藤 2012, p. 28.
- ^ 加藤 2012, p. 24.
- ^ 後藤 & 1982-9, p. 206.
- ^ 原 & 1987-9, pp. 121, 126.
- ^ 川瀬 2005, p. 34.
- ^ a b 堀内 2006, p. 52.
- ^ a b 村上 2006, p. 79.
- ^ 村上 2006, p. 80.
- ^ 大島 1986, p. 61.
- ^ 大島 1986, p. 68.
- ^ トゥーズ 2019, p. 338.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 338–339.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 232–233.
- ^ a b 大島 1988, p. 12.
- ^ 村瀬 1975, p. 368.
- ^ 村上 2007, p. 79.
- ^ 村上 2007, p. 80.
- ^ 村上 2007, p. 71.
- ^ 工藤 1980, p. 64.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 434–437.
- ^ トゥーズ 2019, p. 446.
- ^ トゥーズ 2019, p. 467.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 466–467.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 510–514.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 566-.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 443–444, 446.
- ^ 加藤 2006, p. 92.
- ^ 加藤 2006, pp. 92–93.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 399–401.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 559–560.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 376–377.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 439–441.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 441–443, 446.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 388–389.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 469–470.
- ^ a b 鈴木 1985, p. 163.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 413–414.
- ^ a b 工藤 1980, p. 78.
- ^ a b 工藤 1980, p. 77.
- ^ 川瀬 1999, p. 42.
- ^ 川瀬 1999, pp. 42–43.
- ^ 工藤 1980, p. 65.
- ^ 中村 1997, p. 268.
- ^ 中村 1997, p. 271.
- ^ a b c 工藤 1980, p. 72.
- ^ a b 工藤 1980, p. 73.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 655.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 640–654.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 678.
- ^ トゥーズ 2019, p. 741.
- ^ a b 中村 1995, p. 170.
- ^ 中村 1995, p. 175.
- ^ a b c 工藤 1980, p. 68.
- ^ 中村 1995, p. 181.
- ^ 中村 1995, pp. 184–185.
- ^ a b 中村 1999, p. 163.
- ^ 中村 1995, p. 192.
- ^ トゥーズ 2019, pp. 410–411.
- ^ 中村 1997, pp. 265–266.
- ^ 中村 1997, pp. 267–268.
- ^ 高橋 2005, p. 28.
- ^ 中村 2002, p. 6).
- ^ 中村 1999, p. 162.
- ^ 中村 2002, pp. 1–2.
- ^ 工藤 1980, p. 76.
- ^ 中村 2002, p. 7.
- ^ 中村 2007, p. 91.
- ^ 中村 2007, p. 95.
- ^ 中村 2007, p. 97.
- ^ 村瀬 1975, p. 495.
- ^ 村瀬 1975, p. 496.
- ^ 中村 1995, p. 169.
- 1 ナチス・ドイツの経済とは
- 2 ナチス・ドイツの経済の概要
- 3 戦時経済
- 4 脚注
- 5 関連項目
- ナチス・ドイツの経済のページへのリンク