カール・ヨハン・マキシモヴィッチ カール・ヨハン・マキシモヴィッチの概要

カール・ヨハン・マキシモヴィッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/25 14:22 UTC 版)

カール・ヨハン・マキシモヴィッチ
Карл Иванович Максимович
Carl Johann Maximowicz (1827-1891)
生誕1827年11月23日
ユリウス暦では同年11月11日)
ロシアトゥーラ
死没1891年2月16日
(ユリウス暦では同年2月4日)
ロシア、サンクトペテルブルク
職業植物学者

バルト・ドイツ人で、本名はカール・イワノヴィッチ・マキシモヴィッチ(ロシア語: Карл Ива́нович Максимо́вич)であるが、著作や論文など研究発表はドイツ流のカール・ヨハン・マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz)の名を記している。

経歴

モスクワ近郊のトゥーラで生を受ける。サンクトペテルブルクのドイツ人学校(die Annenschule)から、今日のエストニアタルトゥ大学に進学し、1850年までアレクサンダー・フォン・ブンゲ(Alexander von Bunge)に師事した。在学中にブンゲの影響を受け、生涯を東アジアの植物相解明に捧げようと決意する。卒業後に同大学附属植物園の助手を勤めたあと、1852年にはサンクトペテルブルク帝立植物園標本館(現・ロシア科学アカデミーコマロフ植物学研究所)にキュレーターとして異動する。

東アジア歴訪

1853年、プチャーチン提督が遣日全権使節として日本に赴くことになり、彼も提督の率いるフリゲート艦ディアナ号に、同じバルト・ドイツ人学者のレオポルド・フォン・シュレンクと共に世界各地の植物相調査のため便乗する。しかし翌年、沿海州のデ・カストリーニに入港した時点でクリミア戦争が勃発し、調査打切りを余儀なくされる。近海をたむろしているイギリス艦船に攻撃される恐れがあったため、軍人らは上海へ引き上げるも、民間人である彼らはその恐れなしと判断して現地に上陸し、以降3年にわたってアムール地方の植物相を調査する。

1857年にサンクトペテルブルクに戻り、2年後の1859年に調査結果を「アムール地方植物誌予報[1]として学会に提出する。この論文により彼はデミトフ賞を受賞し、同時に科学アカデミーの賛助会員に選出される。

来日

同賞で得た賞金で次は満州の植物相を調査しようと考えたマキシモヴィッチは早くもその年に出発するが、満州到着直前に日本の開国を聞きつけ、急遽日本の植物相調査のためウラジオストクから函館へ向かう。

マキシモヴィッチは1860年から1864年2月まで日本に滞在し、精力的に日本の植物相調査を行った。手始めに函館で採集助手として日本人の須川長之助を雇い、およそ1年ほどをそこで過ごし渡島半島の植物相調査を行う。1862年、助手の長之助を伴って横浜を経由し九州へ向かう。途中、偶然にも横浜滞在中に生麦事件に遭遇している。九州では長崎に1年余り滞在し、周辺を調査するとともに長之助を雲仙阿蘇霧島などへ遣わした。またこのとき、たまたま日本滞在中であったシーボルトとも長崎で会っている[2]

帰国後

こうして日本、アムール、ウスリー流域など東アジアで収集した植物の研究結果を「日本・満州産新植物の記載[3]にまとめ、生物学会雑誌、サンクトペテルブルク帝国科学院紀要へ投稿している。

1869年には主任研究員に任命され、1870年には標本館館長に就任する。さらに1871年には科学アカデミーの正会員となる。彼はその後日本の植物相解明に尽力しようと、あれこれ準備までしたのだが、名声が高まるにつれ立場的に南下政策を重視する当時の帝政ロシア政府の意向に従わざるをえなくなり、政府の意に従いタングートモンゴルを探検したプルジェヴァリスキー らが標本館にもたらした採集品の整理に時間を割かれるようになる。けっきょくこれらを整理した「タングートの植物相[4]や「アジア産の新植物記載[5]を上梓できたものの、その直後にインフルエンザがもとで1891年にサンクトペテルブルクにて没し、東アジア植物相の解明は果たせぬまま終わった。

業績

マキシモヴィッチはケンペルツンベルクシーボルトと続いた日本の植物相調査研究の流れを引き継ぎ、これを日本人植物学者に引き渡す重要な役割を果たした。シーボルトら3人との大きな違いは、前三者の研究対象があくまで日本国内にとどまっていたのに対し、彼のそれが東アジア全域にわたっていたことであり、それにより初めて朝鮮、中国、満州の植物相と日本の植物相の比較が可能になり、東アジアにおける日本植物相の地理的な位置づけが明確にされた。

マキシモヴィッチが、結果としてシーボルトらの研究を引き継いだことは自身も自覚しており、ロシアへ帰国してアカデミー正会員になった当初にシーボルトやツンベルクの標本、研究資料などの散逸を防ごうとアカデミー名義で積極的にこれらを購入した[6]。中でも著名なのが川原慶賀の描いた日本植物の写生画である。シーボルトの著書『フロラ・ヤポニカ』の挿し絵にも使用され、芸術的価値も高いとされるこの絵は、シーボルトの死後は夫人のヘレーネが所有していたが、それらを夫人と交渉のうえ購入した。またツンベルクが描かせた日本での採集品図譜も入手した。こうした収集品は現在も、ロシアのコマロフ植物学研究所に収蔵されている。

命名した植物種

マキシモヴィッチはじつに2,300にわたる東アジア地域の植物を系統的に分類し、命名した[7]。日本を含めた東アジア産植物の学名には命名者が Maxim. とあるものがかなりあるが、そのいずれもが彼が命名した種である。以下はその一例。

献名された動植物種

  • ウダイカンバBetula maximowicziana: Monarch Birch
  • オオバサンザシCrataegus maximowiczii Schneid.
  • キレハハリギリKalopanax pictus var maximowiczii
  • コオニユリLilium leichtlinii Hooker f. var. maximowiczii (Regel) Baker
  • ドロノキPopulus maximowiczii: Maximowicz' Poplar
  • ヒメバラモミPicea maximowiczii: Maximowicz Spruce
  • メグスリノキ ‐ Acer maximowiczianum: Nikko maple
    • シノニムの1つ。マキシモヴィッチ自身の命名と彼への献名が同じ種を指す珍例。
  • ミヤコジマハマアカザ ‐ Atriplex maximowicziana: Maximowicz's Saltbush
  • ハタネズミ属の1種 ‐ Microtus maximowiczii: Maximowicz's Vole

  1. ^ Maximowicz, C. J., 1859. Primitiae Florae Amurensis. Mem. Acad. Sci. St. Petersb., vol. 9, 1-504 pp.
  2. ^ a b 植物をめぐる異国文化の出逢い
  3. ^ Maximowicz, C. J., 1866-1877. Diagnoses breves plantarum novarum Japoniae et Manshuriae, 1-20. Bull. Acad. Sci. St. Petersb., vols. 10-22; also Melanges Biol. Acad. Sci. St. Petersb., vols. 6-9.
  4. ^ Maximowicz, C. J., Flora Tangutica : sive enumeratio plantarum regionis Tangut (AMDO) provinciae Kansu, nec non Tibetiae praesertim orientaliborealis atque tsaidam : ex collectionibus N.M. Przewalski atque G.N. Potanin (1889)
  5. ^ Maximowicz, C. J., 1877-93. Diagnoses plantarum novarum asiaticarum, 1-8. Bull. Acad. Sci. St. Petersb., vols. 23-32; also Melanges Biol. Acad. Sci. St. Petersb., vols. 9-12.
  6. ^ シーボルトの21世紀‐日本植物の研究を競った欧米諸国
  7. ^ IPNI Results for Maxim. International Plant Names Index 2005.
  8. ^ a b 須川長之助と植物採集


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