アリゾナ・カージナルス 歴史

アリゾナ・カージナルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/23 19:43 UTC 版)

歴史

創成期・シカゴ時代

1898年に創設されたモーガン・アスレティック・クラブ
シカゴ・カージナルスのロゴマーク

チームは1898年にクリス・オブライエンにより、モーガン・アスレチッククラブとしてシカゴで創設された。1899年にチームはホームスタジアムをノーマル・パークに移しラシーン・ノーマルズと改称、1901年にシカゴ大学からマルーンのユニフォームを購入した。この時オーナーはこれはマルーンではなくカーディナルレッド(枢機卿の礼服の色)だと述べ、それがチームの愛称となりラシーンストリート・カージナルス(Racine Street Cardinals)と改称した。チーム名のラシーンは、シカゴのラシーン・アベニューから取られた。1906年にいったんチームは解散したが1913年にプロチームとして再建された。1918年に第一次世界大戦スペインかぜの影響で活動を一時停止したが年内に活動を再開した。

1920年ラシーン・カージナルスとしてNFL(当時は、アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション、1922年に現名称)に加入し、オリジナルメンバーとなった。NFL発足当時から現在まで存続しているチームは他にシカゴ・ベアーズ(当初はデカター・ステイリーズ)のみである。1922年にウィスコンシン州ラシーンを本拠地とするホーリック・ラシーン・リージョンが加入したため、俗称のシカゴ・カージナルスを正式にチーム名とし、同時に本拠地もコミスキー・パークに移した。1925年に11勝2敗1分の成績でチームは初めてNFLチャンピオンとなった。1929年、オブライエンオーナーはデビッド・ジョーンズへ2万5000ドルでチームを売却した。その後1932年にジョーンズからチャールズ・ビドウィルへチームの売却について合意がなされたがシカゴ・ベアーズの株式を持っていたビドウィルがこれを売却する1933年まで合意が公表されることはなかった。

その後1930年代には10年間で2回しか勝ち越しできなかった。1933年よりリーグは東西2つに分かれることとなったが、カージナルスはウェスタン・ディビジョンに所属することとなった。1936年から1945年までは10シーズン連続で負け越した。第二次世界大戦の影響で1944年に1シーズンのみピッツバーグ・スティーラーズと合同チームを結成しカード・ピット(Card-Pitt)となったが10連敗に終わった。

1945年は1勝に終わったものの1946年には6勝5敗と勝ち越し、1947年に9勝3敗の成績を上げたチームはその年のNFLチャンピオンシップゲームでフィラデルフィア・イーグルスを28-21で破り2度目のNFLチャンピオンとなった。しかし優勝の8ヶ月前にビドウィルオーナーは肺炎のために亡くなっており未亡人のバイオレット・ビドウィルがオーナーに就任していた。この時のスター選手はQBポール・クリストマン、HBチャーリー・トリッピ、エルマー・アングズマン、FBのパット・ハーダーらであった。1948年チームは11勝1敗で2年連続NFLチャンピオンシップゲームに出場したがこの年は0-7でフィラデルフィア・イーグルスに敗れた。1949年バイオレットオーナーはミズーリ州セントルイスの実業家、ウォルター・ウォルフナーと結婚した。チームは6勝5敗1分でシーズンを終えた。

1950年、NFLにオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(AAFC)から4チームが加入した際、アメリカン・カンファレンス(1953年からイースタン・カンファレンス)に所属することとなった。チームは1950年代の10年でわずか33勝しかあげることができず観客はまばらとなりチームは倒産寸前となった。

セントルイス時代

1959年シーズン終了後、フランチャイズをセントルイスに移転し、セントルイス・カージナルス(St. Louis Cardinals、MLB球団のセントルイス・カージナルスと同じ愛称)と改称した。この移転には1960年からNFLに対抗するAFLが誕生する際にセントルイスに球団が設立されるのを阻止する目的も含まれたものであった。セントルイスへの移転はNFLのオーナー会議にかけられて12人のオーナーによる全会一致で移転は承認された。この時代のスター選手はラリー・ウィルソンチャーリー・ジョンソンジム・バッケン、ソニー・ランドル、ジム・ハートらである。

1962年にバイオレットは亡くなり息子のチャールズ・ビドウィル・ジュニア、ビル・ビドウィルがチームを運営するようになった。1964年、ビドウィルオーナーはアトランタにチームを移転することを検討したが新スタジアムを建設するので留まるようセントルイス市当局の訴えを受け、移転は白紙となりアトランタにはアトランタ・ファルコンズが新フランチャイズとして誕生することとなった。

1965年チームは4勝1敗と好スタートを切ったが5勝9敗でシーズンを終えた。1966年も一時8勝2敗1分でイースタン・カンファレンストップを走ったがそこから3連敗して8勝5敗1分となりプレーオフ出場は果たせなかった。1967年チームはイースタン・カンファレンスのセンチュリー・ディビジョンに所属することとなった。この年は6勝7敗1分で終えた。1968年、9勝4敗1分の好成績を残したがプレーオフ出場は叶わなかった。1969年は4勝9敗1分に終わったがこの年から14シーズン、カージナルスでプレーし後にプロフットボール殿堂入りを果たしたロジャー・ウェールリがミズーリ大学から入団し先発セイフティとして活躍した。1970年のNFLとAFLの統合した際にNFCの東地区に所属することとなった。

1970年11月、チームはヒューストン・オイラーズニューイングランド・ペイトリオッツダラス・カウボーイズに3試合連続で完封勝利を果たした。コットン・ボウルで行われたマンデーナイトフットボールのカウボーイズ戦では38-0の大勝であった。しかしシーズン最後3試合のニューヨーク・ジャイアンツデトロイト・ライオンズワシントン・レッドスキンズ戦に3連敗し8勝5敗1分に終わりプレーオフを逃した。1971年から1973年までは3年連続4勝9敗1分に終わった。なお1972年からビル・ビドウィルが単独オーナーとなり現在までチームを所有している。1つのファミリーがNFLチームを所有している期間としてこれより長いのはニューヨーク・ジャイアンツシカゴ・ベアーズだけである。

1972年シーズン終了後、ラリー・ウィルソンが現役を引退、1973年チームにサンディエゴ州立大学からドン・コリエルがヘッドコーチに就任した。1974年、チームは開幕から7連勝を果たしNFC東地区優勝を果たした。チームがプレーオフに出場するのは1948年以来のことであった。プレーオフ、敵地メトロポリタン・スタジアムで行われたミネソタ・バイキングス戦でチームは7-0と先制したがハーフタイム前にFGに失敗するとモメンタムを失い後半開始7分で16失点するなど14-30で敗れた。

1975年もチームは地区優勝を果たしたがロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたロサンゼルス・ラムズ戦でローレンス・マッカチオンにNFLのプレーオフ記録となる202ヤードを走られジャック・ヤングブラッド、ビル・シンプソンにインターセプトリターンTDを許すなど23-35で敗れた。この時代チームはダン・ディアードルフ、コンラッド・ドブラー、トム・バンクスといった優れたオフェンスラインに支えられた。この時代のチームは接戦が多くメディアやファンはCardic Cardinals とチームを呼んだ。この時代のスターはウェールリ、メル・グレイ、テリー・メトカーフ、ジム・オーティスであった。

1976年、チームは10勝4敗の好成績を残したが、同じ10勝4敗となった同地区のワシントン・レッドスキンズに2敗しており、NFCのチームとして10勝しながら初めてプレーオフ出場を逃したチームとなった。1977年チームはシーズン途中6連勝を果たしたがその後翌1978年にまたがり12連敗した。この連敗の中には1976年創設されてから26連敗し、ホームではまだ勝ち星をあげていいなかったタンパベイ・バッカニアーズタンパ・スタジアムで敗れた試合も含まれた。1977年シーズン終了とともにコリエルヘッドコーチ、メトカーフ、ドブラーはチームを去った。

1978年チームはオクラホマ大学を17年間指揮した名将、バド・ウィルキンソンを新ヘッドコーチに迎えた。しかしウィルキンソンは1963年を最後にコーチを引退しており、1978年、チームは開幕から8連敗し6勝10敗、1979年も3勝10敗の成績で解任され最後の3試合はラリー・ウィルソンが暫定ヘッドコーチに就任し5勝11敗で終えた。この時代チームはドラフトの失敗や不幸な出来事が重なった。1978年のドラフト1巡で指名されたスティーブ・リトルは1980年に交通事故で選手生命を失い、1979年のトレーニングキャンプ中にJ・V・ケインが心臓発作で死去した。

カージナルスは28シーズンをセントルイスで戦ったがその間プレーオフに出場したのは1974年、1975年、1982年のわずか3回であり187勝202敗13分、勝率.481に終わった。

1982年から1984年までチームは3年連続で勝ち越した。この時代のスターはQBニール・ロマックス、WRロイ・グリーン、RBオーティス・アンダーソンである。1982年ストライキで短縮されたシーズンを5勝4敗で終えたチームは16チームが出場することとなったプレーオフに出場したがグリーンベイ・パッカーズに16-41で敗れた。

WRのロイ・グリーン(1986年)

1983年、チームはこの年第18回スーパーボウルを制するオークランド・レイダースを破るなど8勝7敗1分の成績を残した。1984年、チームは最終週のワシントン・レッドスキンズに勝利すればプレーオフ出場を果たせるところであったが逆転を狙ったFGが失敗し27-29で敗れた。1985年、チームは3勝1敗と好スタートを切ったが5勝11敗に終わり、6シーズンチームの指揮を執ったジム・ハニファンはチームを去った。彼の後任となったのがトム・ランドリーのもとでアシスタントコーチを務めたこともあるテキサス農工大学の元ヘッドコーチ、ジーン・スターリングである。1986年、4勝11敗1分、1987年、7勝8敗とチーム成績は改善された。この年のタンパベイ・バッカニアーズ戦では3-28と25点差リードされた状況から第4Qに28点を取り、31-28と逆転勝利をおさめた。これは第4Q最大得点差からの逆転勝利としてNFL記録となっている。

この時期、老朽化したブッシュ・メモリアル・スタジアムやチーム成績の影響で観客数は伸び悩み、ビドウィルオーナーはボルチモアフェニックスジャクソンビルなどへの移転を検討した。いったんは地元ファンの反対もあり計画は中止されたが1987年ホーム最後のゲームとなったニューヨーク・ジャイアンツ戦は29,623人の観客しか入らなかった。そして翌1988年アリゾナ州フェニックス都市圏に移転し、フェニックス・カージナルス(Phoenix Cardinals)と改称した。

アリゾナ時代

アリゾナへ移転を果たしたものの、貯蓄貸付組合からの資金調達ができず、新スタジアム建設は果たせなかった。そのため、テンピにあるアリゾナ州立大学が所有するサンデビル・スタジアムを本拠地とした。アリゾナに移転してからもチームはNFC東地区に所属した。そのためロードゲームにおける移動距離はNFL一であることが多かった。また73,000人収容可能なスタジアムに観客は平均35,000人しか入らずチケットが完売するのは平均して年に8試合中2試合ほどであった。

1994年3月に現在のアリゾナ・カージナルスと改称した。

2002年ヒューストン・テキサンズが加入した際の地区再編でそれまで所属していたNFC東地区からNFC西地区に移った。この年のドラフト3巡目でQBジョシュ・マカウンを指名した。

2004年4月にカージナルスに所属しながらアメリカ陸軍のレンジャー部隊に所属していたパット・ティルマンイラク戦争従軍中に戦死した。カージナルスはティルマンの死を悼み背番号「40」を永久欠番とした。
同年のドラフト1巡目全体3位でピッツバーグ大学WRのラリー・フィッツジェラルドを獲得した。

2006年から本拠地としているステートファーム・スタジアム(当時は、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアム)

2006年からはアリゾナ州の外部団体が所有する、ユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムに本拠地を移した。フェニックス大学は命名権を有するだけで、この後、カーディナルスは大学チームとスタジアムを共用してはいない。

2007年ピッツバーグ・スティーラーズのオフェンシブ・コーディネーターだったケン・ウィゼンハントがヘッドコーチに就任した。NFLドラフトでは、1巡目全体5位でペンシルベニア州立大学のOTリーバイ・ブラウンを指名した。

2008年、ドラフトでは1巡目(全体16位)でテネシー州立大学のコーナーバックドミニク・ロジャース=クロマティを指名した。シーズンでは、1975年以来で、NFC西地区では初となる地区優勝を果たした。地区優勝を決めた後、調子を落としたもののプレーオフに入ってからQBカート・ワーナーWRラリー・フィッツジェラルドらの活躍、レギュラーシーズン不振だったディフェンスのがんばりでアトランタ・ファルコンズカロライナ・パンサーズフィラデルフィア・イーグルスを破りピッツバーグ・スティーラーズ第43回スーパーボウルで対戦した。前半終了間際、ワーナーのパスがエンドゾーンでインターセプトされ100ヤードリターンタッチダウンをされるなど大きくリードされたがその後フィッツジェラルドへのTDパス2本が決まり逆転を果たした。しかし終了1分を切ったところでスティーラーズの逆転タッチダウンが決まりスーパーボウル初制覇はならなかった。

パスをキャッチするラリー・フィッツジェラルド

2009年、チームは2年連続で地区優勝を果たし、シーズンでは10勝6敗とアリゾナ移転以来の最も良い成績だった。プレーオフでは、ニューオーリンズ・セインツに14-45で敗れた。シーズン終了後、QBのカート・ワーナーは引退した。

2010年のシーズンオフにQBデレック・アンダーソンを獲得、ワーナーの後継として期待がかかっていたマット・ライナート(2006年ドラフト全体10位指名)はシーズン開幕前に解雇された[1]。シーズン開幕後、不安定なアンダーソンに代わりドラフト外で入団した新人QBマックス・ホールが先発を務めることとなった。

2011年フィラデルフィア・イーグルスからQBケビン・コルブを獲得した。コルブは故障がちでジョン・スケルトンと併用された。ドラフト1巡目全体5位で獲得したCBパトリック・ピーターソンがパントリターンで4タッチダウンをあげる活躍を見せた。オーバータイムでの勝利も何度かあり、8勝8敗でシーズンを終えた。

2012年、開幕直前までケビン・コルブとジョン・スケルトンが先発QB争いを行ったが、両者ともにプレシーズンゲームでは結果を残せないまま、スケルトンが開幕戦のエースQBに指名された。その後、スケルトンが負傷退場、コルブがQBを務める中、1974年以来となる開幕からの4連勝をあげたが[2]、その後9連敗するなど、残り12試合で11敗し、5勝11敗でシーズンを終えた。シーズン終了後、ヘッドコーチのケン・ウィゼンハント、GMのロッド・グレイブズは解任された[3]。後任のヘッドコーチにはインディアナポリス・コルツで病気のためチームを離脱したチャック・パガーノの代わりに2012年シーズン途中指揮を執っていたブルース・エリアンスが就任した。

2013年、2013年ドラフト6巡指名権及び2014年ドラフト条件付き指名権と引き換えに4月2日、オークランド・レイダースからカーソン・パーマーをトレードで獲得した。10勝をするもプレーオフ進出はならなかった。翌2014年は前年を上回る11勝をし、セントルイスに本拠地を置いていた1975年以来最も多くの勝利を上げた。プレーオフでは、カロライナ・パンサーズに敗れた。2015年、コーチインターンとしてジェニファー・ウィルターを採用した。ウィルターはNFL初の女性コーチであると考えられている。シーズンでは13勝を上げ、6年ぶりの地区優勝を果たした。NFCチャンピオンシップゲームではパンサーズに2年連続でプレーオフで敗北した。エリアンスがヘッドコーチに就任して以降、スーパーボウル進出こそ果たせていないものの、レギュラーシーズンは3年連続で勝ち越しを果たした。エリアンスはコルツでペイトン・マニングアンドリュー・ラックピッツバーグ・スティーラーズベン・ロスリスバーガーを指導するなど[4]QB育成の実績を残してきたが、ここでもハイズマン賞受賞者でありながら安定した成績を残せずにいたカーソン・パーマーを正QBとして成長させ[5]、手腕を示した。

前年の好成績から優勝候補となっていた2016年は、7勝8敗1分と負け越した。2017年デビッド・ジョンソンやパーマーの怪我もあり、勝ち越すことはできず、2年連続してプレーオフを逃し、エリアンスは退任した。また、QBカーソン・パーマーもこの年限りの引退となった。カロライナ・パンサーズのディフェンシブ・コーディネーターだったスティーブ・ウィルクスが後任のヘッドコーチに就任した。

2018年、シーズン開始前にGMのスティーブ・ケイムが飲酒運転で逮捕され、5週間の停職処分となった。シーズンでは、QBに新加入のサム・ブラッドフォードが起用されるも、4週目からはこの年のドラフト1巡目指名のジョシュ・ローゼンが起用されている。シーズン途中にQBブラッドフォード、オフェンシブ・コーディネーターのマイク・マッコイが解雇された。その結果、地区最下位かつカンファレンス最下位、3年連続でプレーオフを逃した。シーズン後、ヘッドコーチのウィルクスは解雇された。後任のヘッドコーチにはテキサス工科大学の元ヘッドコーチのクリフ・キングズベリーが就任した。

2019年、ドラフト全体1位でオクラホマ大学QBのカイラー・マレーを指名した。マレー指名後、ジョシュ・ローゼンはマイアミ・ドルフィンズへトレードされた。シーズンでは、マレーを先発QBとして起用するも、5勝10敗1分で2年連続で地区最下位となった。

2020年、シーズン直前にヒューストン・テキサンズからWRのディアンドレ・ホプキンスを獲得した[6]。シーズンでは、新型コロナウイルスの流行により、開幕2戦目と3戦目が無観客試合となった[7]。この年は、8勝8敗の地区3位となり、5年連続でプレーオフを逃した。シーズン後、ヒューストン・テキサンズからDEのJ・J・ワット[8]シンシナティ・ベンガルズからWRのA・J・グリーン[9]を獲得した。テネシー・タイタンズからCBのマルコム・バトラー英語版[10]も獲得したが、8月31日に個人的な理由で引退した[11]

2021年は本シーズンから4試合から3試合に減らされたプレシーズンゲームのうち最終戦をハリケーンによるニューオーリンズの被害により中止とされるも、開幕後はマレーを擁して7連勝を重ねた。終盤5試合は1勝にとどまって地区優勝できなかったものの、ワイルドカードで6年ぶりにプレーオフに進出した。初戦でロサンゼルス・ラムズに敗れた。


  1. ^ J・J・ワットはゴールドバーグの娘の許可を得て、2021年から背番号99を着用している。

注釈

  1. ^ ピッツバーグ・スティーラーズとの合同チーム
  2. ^ 1906年に一度チームは解散し、1913年に再び結成された
  3. ^ グリーンベイ・パッカーズは、1921年にNFLに参加するまでリーグに属さない独立チームだった
  4. ^ MLBの同名チームとの混同を避けるため、地元では「フットボールカージナルス」、「グリッドバード」、「ビッグレッド」などと呼ばれていた
  5. ^ レギュラーシーズンでは566勝771敗41分、プレーオフでは7勝9敗

出典

  1. ^ カーディナルスがQBライナート放出、アンダーソン先発に”. NFL JAPAN (2010年9月5日). 2010年9月9日閲覧。
  2. ^ 【第5週プレビュー】大躍進のカーディナルス、開幕5連勝は?”. NFL JAPAN (2012年10月4日). 2012年10月20日閲覧。
  3. ^ カーディナルス、HCとGMの他にも攻撃コーチ陣を一掃”. NFL JAPAN (2013年1月1日). 2013年1月2日閲覧。
  4. ^ 新HCたちの挑戦 -アンディ・リード&ブルース・アリアンズ-”. NFL JAPAN (2013年5月23日). 2016年10月3日閲覧。
  5. ^ QBパーマー、「カーディナルスのオフェンスは完全開花」”. NFL JAPAN (2014年5月27日). 2016年10月3日閲覧。
  6. ^ カーディナルスがWRホプキンスと2年57億円で契約延長”. NFL JAPAN (2020年9月9日). 2021年4月29日閲覧。
  7. ^ アリゾナ・カーディナルスが無観客での2020年レギュラーシーズン開幕を発表”. NFL JAPAN (2020年8月30日). 2021年4月29日閲覧。
  8. ^ J.J.ワットがカーディナルスと2年契約”. NFL JAPAN (2021年3月2日). 2021年4月29日閲覧。
  9. ^ カーディナルスがWRのA.J.グリーンと1年8億円超えの契約”. NFL JAPAN (2021年3月18日). 2021年4月29日閲覧。
  10. ^ CBバトラーがカーディナルスと最大6億円の1年契約”. NFL JAPAN (2021年3月26日). 2021年4月29日閲覧。
  11. ^ Cardinals place CB Malcolm Butler on reserved/retired list”. NFL.com. 2022年8月17日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

アリゾナ・カージナルスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アリゾナ・カージナルスのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアリゾナ・カージナルス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS