アメリカ施政権下の小笠原諸島 地理

アメリカ施政権下の小笠原諸島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 16:40 UTC 版)

地理

1987年(昭和62年)の南鳥島。滑走路右側にある塔が南鳥島ロランC局である。

サンフランシスコ平和条約と南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定によると、ここで定義されている南方諸島及びその他の諸島とは、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島西之島及び火山列島を含む。)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島となっている[38]。なお、SCAPIN-677にはこの他に中ノ鳥島の名があるが、これは実在しない島である[23]

また、返還まで一般住民のいる島は父島のみで、ほかに父島、硫黄島、南鳥島に米軍が駐留していた。南鳥島は1945年(昭和20年)から米軍が駐留していたが、1947年(昭和22年)の台風発生に伴う高潮で被害を受けたために撤退し、一時無人島となっていた。その後、1951年(昭和26年)から日本の気象庁がアメリカ政府の委託を受けて気象観測業務を行ったが、1963年(昭和38年)に南鳥島ロランC局が完成したことを受けて撤収し、以後返還後に至るまでアメリカ沿岸警備隊が駐留した[17]。ほかは母島を含めて全て無人島であった。

政治

小笠原諸島は、サンフランシスコ平和条約第2章第3条によって、沖縄と同様に日本の潜在的主権が確認されていた[70]。しかし、サンフランシスコ平和条約第2章第3条には、アメリカを小笠原諸島に対する唯一の施政権者とすることも規定されていたため、小笠原諸島は返還までアメリカ海軍の軍政下に置かれた[4]

アメリカによる小笠原諸島統治の最高責任者は小笠原諸島米国軍政府(United States Military Government of the Bonin islands)長官であり、アメリカ海軍太平洋艦隊司令官が兼務した[71]。また、小笠原諸島米国軍政府副長官はグアムに駐在するマリアナ地域司令官(Commander Marianas)が兼務し[71]、その下に小笠原諸島に対する実務を担当する、小笠原・マリアナ諸島軍政府主任将校(Cheif Military Government officer Bonins-Marianas islands group)と実際に父島に駐在した小笠原諸島軍政府代表(Military Government Representative of the Bonin islands)が置かれた[71]。この体制は1947年(昭和22年)7月に太平洋諸島信託統治領が発足し、サイパンを含む北マリアナ諸島がその一部となった後も変化はなかった[71]。そのため小笠原諸島は、日本が潜在的主権を持つのにもかかわらず、行政上は太平洋諸島信託統治領と一括で管理されることになった[71]

住民自治は小笠原諸島代表委員会(五人委員会)が行った。小笠原諸島代表委員会は18歳以上の島民から選挙によって選出された5人が月に1回集まり、住宅農業漁業について話し合う機関であった[29]。選挙は毎年6月に行われ、最も投票数が多かった候補者が議長、2番目に多かった候補者が財政担当者となり、3~5番目に多かった候補者は委員に選出された[68]。また軍政府代表が委員会の顧問を務めた[68]

司法

1951年(昭和26年)に小笠原諸島裁判所(Bonin island court)が設置され、裁判官には小笠原諸島代表委員会が任命した者が任期1年で就任した[68]。小笠原諸島代表委員会の委員たちは裁判所の補助メンバーとなり、また軍政府代表が裁判所の顧問を務めた[68]


注釈

  1. ^ 最初の入植者である25人の出身地は、欧米人はアメリカ人2名、イギリス人2名、デンマーク人1名で、太平洋諸島出身者はハワイ諸島出身者7名をはじめ、マリアナ諸島カロリン諸島ポンペイ島ギルバート諸島マルキーズ諸島タヒチなど、ポリネシアミクロネシア各地からの出身者で構成されていた。田中 pp41-42, p62
  2. ^ ボニン諸島(Bonin island)とは小笠原諸島の別名で、江戸時代の日本人が小笠原諸島を無人島(ぶにんじま)と呼んでいたのが語源である。林子平の『三国通覧図説』にも無人島と記されており、それがヨーロッパに伝わった。
  3. ^ 最終的に、アメリカは小笠原諸島を信託統治下に置く提案を国際連合に対してしなかったため、日本は小笠原諸島を放棄せずに済んだ。
  4. ^ 返還後、小笠原支庁は再設置された。
  5. ^ 日本の法律では屠畜場法により、牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類の家畜を屠畜場以外の場所で屠殺することは禁止されている。
  6. ^ 1965年(昭和40年)5月の墓参は、硫黄島班25名と父島・母島班37名に分かれ、硫黄島班は日本航空チャーター便を利用し、父島・母島班は海上保安庁の巡視船宗谷を利用した。その後、1966年(昭和41年)に第2回、1967年(昭和42年)に第3回墓参が行われた。

出典

  1. ^ a b c d e エルドリッヂ p210
  2. ^ 総務省統計局 統計データ 第1章 国土・気象 - 2章 統計対象・表章項目 国土の変遷
  3. ^ a b “国勢調査の概要(PDF)”. 総務省統計局. https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/nihon/pdf/02-01.pdf 2016年5月22日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g h 沿革 « 小笠原村公式サイト
  5. ^ a b エルドリッヂ p419
  6. ^ エルドリッヂ p459
  7. ^ 田中 pp2-9
  8. ^ 田中 p28
  9. ^ 田中 p29
  10. ^ 田中 pp41-42
  11. ^ 田中 p150
  12. ^ 田中 p185
  13. ^ 田中 pp205-206
  14. ^ 田中 p248
  15. ^ a b 田中 p250
  16. ^ 歴史:硫黄島 « 小笠原村公式サイト
  17. ^ a b c d e 歴史:南鳥島 « 小笠原村公式サイト
  18. ^ 田中 p260
  19. ^ 田中 p262
  20. ^ ロング p68
  21. ^ 山口 p130
  22. ^ a b エルドリッヂ p143
  23. ^ a b 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号 独立行政法人 北方領土問題対策協会
  24. ^ 山口 pp121-122
  25. ^ 山口 p134
  26. ^ a b c エルドリッヂ pp207-208
  27. ^ a b 田中 p264
  28. ^ エルドリッヂ p209
  29. ^ a b c d e f 山口 p143
  30. ^ a b c d エルドリッヂ pp219-221
  31. ^ a b 山口 p159
  32. ^ エルドリッヂ pp166-167
  33. ^ a b エルドリッヂ p180
  34. ^ エルドリッヂ pp182-183
  35. ^ a b c エルドリッヂ pp183-186
  36. ^ a b c エルドリッヂ pp186-187
  37. ^ エルドリッヂ pp188-190
  38. ^ a b 日本国との平和条約(外務省-日本外交文書)
  39. ^ a b エルドリッヂ p229
  40. ^ 平和条約以後の沖縄と日本外交
  41. ^ a b c 山口 p165
  42. ^ a b c エルドリッヂ pp263-264
  43. ^ a b ロング p71
  44. ^ a b c 山口 pp166-167
  45. ^ a b エルドリッヂ pp222-223
  46. ^ エルドリッヂ p260
  47. ^ a b “有事の核持ち込み、日米が小笠原返還時に秘密協定”. 日本経済新聞. (2011年2月18日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1702Q_Y1A210C1NN0000/ 2016年5月23日閲覧。 
  48. ^ エルドリッヂ pp232-233
  49. ^ エルドリッヂ p225
  50. ^ a b c エルドリッヂ pp227-231
  51. ^ a b ロング p259
  52. ^ a b c 山口 pp168-169
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  54. ^ エルドリッヂ p291
  55. ^ 参議院 予算委員会第二分科会会議録第二号 pp9-10
  56. ^ a b エルドリッヂ p388
  57. ^ エルドリッヂ p389
  58. ^ エルドリッヂ pp390-391
  59. ^ エルドリッヂ p396
  60. ^ a b c エルドリッヂ pp400-403
  61. ^ エルドリッヂ p407
  62. ^ エルドリッヂ p410
  63. ^ a b 参 - 本会議 - 23号 昭和43年05月22日 国会会議録検索システム
  64. ^ a b c d e エルドリッヂ pp423-424
  65. ^ 米に好意的処理を要請 漁船捕獲で外務省『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月2日朝刊 12版 14面
  66. ^ 山口 p174
  67. ^ わが外交の近況 昭和43年度(第13号) 第3部資料 4.日本の締結した重要国際取決め 外務省外交青書
  68. ^ a b c d e エルドリッヂ pp235-236
  69. ^ a b 山口 p195
  70. ^ エルドリッヂ p192
  71. ^ a b c d e エルドリッヂ pp215-219
  72. ^ 山口 pp153-154
  73. ^ 山口 p198
  74. ^ 山口 p192
  75. ^ 山口 p204
  76. ^ エルドリッヂ p214
  77. ^ a b c d 山口 p148
  78. ^ 山口 p152
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  80. ^ 小笠原聖ジョージ教会 日本聖公会東京教区
  81. ^ a b 山口 p245
  82. ^ 山口 p200
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  84. ^ a b 山口 p193
  85. ^ 山口 p243
  86. ^ 山口 pp224-225
  87. ^ 山口 p150
  88. ^ エルドリッヂ p210
  89. ^ エルドリッヂ p238
  90. ^ 山口 p147
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  93. ^ 山口 p141
  94. ^ エルドリッヂ p219
  95. ^ エルドリッヂ p237
  96. ^ 沿革概要|東京都立小笠原高等学校
  97. ^ a b c 山口 p196
  98. ^ 山口 p242
  99. ^ 山口 pp198-199
  100. ^ 山口 p214
  101. ^ 山口 pp209-210
  102. ^ 山口 p211





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