アメリカ施政権下の小笠原諸島
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交通
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アメリカ海軍の輸送船や揚陸艦が不定期に就航したほか、月に1回、グアムとの間に3機のHU-16D型飛行艇が就航していた。これらのHU-16D型飛行艇には「チチ・バード」の愛称がつけられ、父島~グアム間を5時間で結んだ[88]。また、島には1952年(昭和27年)5月から軍医が常駐した[89]が、重病の場合はグアムで治療を受けた[90]。しかし、日本本土との行き来は特別な許可がない限り禁止されており、前述のお見合いを除くと歯科治療の場合のみ渡航の許可が下りることがあった[77]。島民は特定の国のパスポートを所持しておらず、アメリカ海軍が発給した渡航証明書でグアムや日本本土へ渡航した[91]。
また、日本人の小笠原諸島への渡航は1965年(昭和40年)5月の墓参団[4][92][注 6]など特別な場合を除いて許可は下りなかった[93]。台風接近の際に、日本の漁船が父島の湾内で仮泊することは認められたが、船員の上陸は許可されなかった[77]。
教育
島民子弟への教育は、帰島当初は米軍兵舎の一角で行われ、イギリスの商社で40年間働いていた欧米系島民のフランク・ゴンザレス(Frank Gonzales)が英語で授業を行った[94]。その後1956年(昭和31年)にラドフォード提督初等学校(Admiral Radford Elementary School)が設立され、ハワイから日系人の教師2名を含む4名が着任し、島民および米軍子弟の教育にあたった[69]。生徒数は1968年(昭和43年)当時69名で、そのうち島民は60名、米軍子弟は9名であった[95]。
教育制度はアメリカと同様であり、幼稚園から7年生(1966年(昭和41年)より9年生[96])まではラドフォード提督初等学校で教育が行われ、卒業後グアムの高校に進学した[97]。またその間の学費は無料であった[97]。授業は全て英語で行われ、日本語を話すと叱られることもあった[98]。生徒たちは大きな部屋で全学年一緒に勉強し、朝登校して星条旗を掲揚した後、昼は一旦家に帰って昼食を摂り、午後再び登校した[97]。野外映画やキャンプなどの課外授業は頻繁に行われ、潜水艦や米軍基地に見学へ行くこともあった[99]。また、小笠原諸島の日本返還が決まると、日本語の読み書きなど返還に向けた準備教育も行われた[100]。
グアムに進学した生徒たちは、アメリカ海軍関係者の「スポンサー」の家にホームステイし、そこから通学した。スポンサーとそりが合わない場合は、1年ごとにスポンサーを変えることもできた[101]。そのまま大学に進学する者もいたが、返還時に日本の高校生の年齢であった生徒は、新設された東京都立小笠原高等学校に編入学した[102]。
脚注
注釈
- ^ 最初の入植者である25人の出身地は、欧米人はアメリカ人2名、イギリス人2名、デンマーク人1名で、太平洋諸島出身者はハワイ諸島出身者7名をはじめ、マリアナ諸島、カロリン諸島のポンペイ島、ギルバート諸島、マルキーズ諸島、タヒチなど、ポリネシアやミクロネシア各地からの出身者で構成されていた。田中 pp41-42, p62
- ^ ボニン諸島(Bonin island)とは小笠原諸島の別名で、江戸時代の日本人が小笠原諸島を無人島(ぶにんじま)と呼んでいたのが語源である。林子平の『三国通覧図説』にも無人島と記されており、それがヨーロッパに伝わった。
- ^ 最終的に、アメリカは小笠原諸島を信託統治下に置く提案を国際連合に対してしなかったため、日本は小笠原諸島を放棄せずに済んだ。
- ^ 返還後、小笠原支庁は再設置された。
- ^ 日本の法律では屠畜場法により、牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類の家畜を屠畜場以外の場所で屠殺することは禁止されている。
- ^ 1965年(昭和40年)5月の墓参は、硫黄島班25名と父島・母島班37名に分かれ、硫黄島班は日本航空のチャーター便を利用し、父島・母島班は海上保安庁の巡視船宗谷を利用した。その後、1966年(昭和41年)に第2回、1967年(昭和42年)に第3回墓参が行われた。
出典
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