アメリカ施政権下の小笠原諸島 交通

アメリカ施政権下の小笠原諸島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/10 16:40 UTC 版)

交通

HU-16型飛行艇

アメリカ海軍の輸送船揚陸艦が不定期に就航したほか、月に1回、グアムとの間に3機のHU-16D飛行艇が就航していた。これらのHU-16D型飛行艇には「チチ・バード」の愛称がつけられ、父島~グアム間を5時間で結んだ[88]。また、島には1952年(昭和27年)5月から軍医が常駐した[89]が、重病の場合はグアムで治療を受けた[90]。しかし、日本本土との行き来は特別な許可がない限り禁止されており、前述のお見合いを除くと歯科治療の場合のみ渡航の許可が下りることがあった[77]。島民は特定の国のパスポートを所持しておらず、アメリカ海軍が発給した渡航証明書でグアムや日本本土へ渡航した[91]

また、日本人の小笠原諸島への渡航は1965年(昭和40年)5月の墓参団[4][92][注 6]など特別な場合を除いて許可は下りなかった[93]。台風接近の際に、日本の漁船が父島の湾内で仮泊することは認められたが、船員の上陸は許可されなかった[77]

教育

島民子弟への教育は、帰島当初は米軍兵舎の一角で行われ、イギリスの商社で40年間働いていた欧米系島民のフランク・ゴンザレス(Frank Gonzales)が英語で授業を行った[94]。その後1956年(昭和31年)にラドフォード提督初等学校(Admiral Radford Elementary School)が設立され、ハワイから日系人教師2名を含む4名が着任し、島民および米軍子弟の教育にあたった[69]。生徒数は1968年(昭和43年)当時69名で、そのうち島民は60名、米軍子弟は9名であった[95]

教育制度アメリカと同様であり、幼稚園から7年生(1966年(昭和41年)より9年生[96])まではラドフォード提督初等学校で教育が行われ、卒業後グアムの高校に進学した[97]。またその間の学費は無料であった[97]授業は全て英語で行われ、日本語を話すと叱られることもあった[98]。生徒たちは大きな部屋で全学年一緒に勉強し、朝登校して星条旗を掲揚した後、昼は一旦家に帰って昼食を摂り、午後再び登校した[97]。野外映画キャンプなどの課外授業は頻繁に行われ、潜水艦や米軍基地に見学へ行くこともあった[99]。また、小笠原諸島の日本返還が決まると、日本語の読み書きなど返還に向けた準備教育も行われた[100]

グアムに進学した生徒たちは、アメリカ海軍関係者の「スポンサー」の家にホームステイし、そこから通学した。スポンサーとそりが合わない場合は、1年ごとにスポンサーを変えることもできた[101]。そのまま大学に進学する者もいたが、返還時に日本の高校生の年齢であった生徒は、新設された東京都立小笠原高等学校編入学した[102]

脚注


注釈

  1. ^ 最初の入植者である25人の出身地は、欧米人はアメリカ人2名、イギリス人2名、デンマーク人1名で、太平洋諸島出身者はハワイ諸島出身者7名をはじめ、マリアナ諸島カロリン諸島ポンペイ島ギルバート諸島マルキーズ諸島タヒチなど、ポリネシアミクロネシア各地からの出身者で構成されていた。田中 pp41-42, p62
  2. ^ ボニン諸島(Bonin island)とは小笠原諸島の別名で、江戸時代の日本人が小笠原諸島を無人島(ぶにんじま)と呼んでいたのが語源である。林子平の『三国通覧図説』にも無人島と記されており、それがヨーロッパに伝わった。
  3. ^ 最終的に、アメリカは小笠原諸島を信託統治下に置く提案を国際連合に対してしなかったため、日本は小笠原諸島を放棄せずに済んだ。
  4. ^ 返還後、小笠原支庁は再設置された。
  5. ^ 日本の法律では屠畜場法により、牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類の家畜を屠畜場以外の場所で屠殺することは禁止されている。
  6. ^ 1965年(昭和40年)5月の墓参は、硫黄島班25名と父島・母島班37名に分かれ、硫黄島班は日本航空チャーター便を利用し、父島・母島班は海上保安庁の巡視船宗谷を利用した。その後、1966年(昭和41年)に第2回、1967年(昭和42年)に第3回墓参が行われた。

出典

  1. ^ a b c d e エルドリッヂ p210
  2. ^ 総務省統計局 統計データ 第1章 国土・気象 - 2章 統計対象・表章項目 国土の変遷
  3. ^ a b “国勢調査の概要(PDF)”. 総務省統計局. https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/nihon/pdf/02-01.pdf 2016年5月22日閲覧。 
  4. ^ a b c d e f g h 沿革 « 小笠原村公式サイト
  5. ^ a b エルドリッヂ p419
  6. ^ エルドリッヂ p459
  7. ^ 田中 pp2-9
  8. ^ 田中 p28
  9. ^ 田中 p29
  10. ^ 田中 pp41-42
  11. ^ 田中 p150
  12. ^ 田中 p185
  13. ^ 田中 pp205-206
  14. ^ 田中 p248
  15. ^ a b 田中 p250
  16. ^ 歴史:硫黄島 « 小笠原村公式サイト
  17. ^ a b c d e 歴史:南鳥島 « 小笠原村公式サイト
  18. ^ 田中 p260
  19. ^ 田中 p262
  20. ^ ロング p68
  21. ^ 山口 p130
  22. ^ a b エルドリッヂ p143
  23. ^ a b 連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)第677号 独立行政法人 北方領土問題対策協会
  24. ^ 山口 pp121-122
  25. ^ 山口 p134
  26. ^ a b c エルドリッヂ pp207-208
  27. ^ a b 田中 p264
  28. ^ エルドリッヂ p209
  29. ^ a b c d e f 山口 p143
  30. ^ a b c d エルドリッヂ pp219-221
  31. ^ a b 山口 p159
  32. ^ エルドリッヂ pp166-167
  33. ^ a b エルドリッヂ p180
  34. ^ エルドリッヂ pp182-183
  35. ^ a b c エルドリッヂ pp183-186
  36. ^ a b c エルドリッヂ pp186-187
  37. ^ エルドリッヂ pp188-190
  38. ^ a b 日本国との平和条約(外務省-日本外交文書)
  39. ^ a b エルドリッヂ p229
  40. ^ 平和条約以後の沖縄と日本外交
  41. ^ a b c 山口 p165
  42. ^ a b c エルドリッヂ pp263-264
  43. ^ a b ロング p71
  44. ^ a b c 山口 pp166-167
  45. ^ a b エルドリッヂ pp222-223
  46. ^ エルドリッヂ p260
  47. ^ a b “有事の核持ち込み、日米が小笠原返還時に秘密協定”. 日本経済新聞. (2011年2月18日). http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1702Q_Y1A210C1NN0000/ 2016年5月23日閲覧。 
  48. ^ エルドリッヂ pp232-233
  49. ^ エルドリッヂ p225
  50. ^ a b c エルドリッヂ pp227-231
  51. ^ a b ロング p259
  52. ^ a b c 山口 pp168-169
  53. ^ エルドリッヂ p292
  54. ^ エルドリッヂ p291
  55. ^ 参議院 予算委員会第二分科会会議録第二号 pp9-10
  56. ^ a b エルドリッヂ p388
  57. ^ エルドリッヂ p389
  58. ^ エルドリッヂ pp390-391
  59. ^ エルドリッヂ p396
  60. ^ a b c エルドリッヂ pp400-403
  61. ^ エルドリッヂ p407
  62. ^ エルドリッヂ p410
  63. ^ a b 参 - 本会議 - 23号 昭和43年05月22日 国会会議録検索システム
  64. ^ a b c d e エルドリッヂ pp423-424
  65. ^ 米に好意的処理を要請 漁船捕獲で外務省『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月2日朝刊 12版 14面
  66. ^ 山口 p174
  67. ^ わが外交の近況 昭和43年度(第13号) 第3部資料 4.日本の締結した重要国際取決め 外務省外交青書
  68. ^ a b c d e エルドリッヂ pp235-236
  69. ^ a b 山口 p195
  70. ^ エルドリッヂ p192
  71. ^ a b c d e エルドリッヂ pp215-219
  72. ^ 山口 pp153-154
  73. ^ 山口 p198
  74. ^ 山口 p192
  75. ^ 山口 p204
  76. ^ エルドリッヂ p214
  77. ^ a b c d 山口 p148
  78. ^ 山口 p152
  79. ^ 山口 p144
  80. ^ 小笠原聖ジョージ教会 日本聖公会東京教区
  81. ^ a b 山口 p245
  82. ^ 山口 p200
  83. ^ 山口 p225
  84. ^ a b 山口 p193
  85. ^ 山口 p243
  86. ^ 山口 pp224-225
  87. ^ 山口 p150
  88. ^ エルドリッヂ p210
  89. ^ エルドリッヂ p238
  90. ^ 山口 p147
  91. ^ 山口 p206
  92. ^ エルドリッヂ p367
  93. ^ 山口 p141
  94. ^ エルドリッヂ p219
  95. ^ エルドリッヂ p237
  96. ^ 沿革概要|東京都立小笠原高等学校
  97. ^ a b c 山口 p196
  98. ^ 山口 p242
  99. ^ 山口 pp198-199
  100. ^ 山口 p214
  101. ^ 山口 pp209-210
  102. ^ 山口 p211





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