ベルリン市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/02 16:52 UTC 版)
![]() 市長 Regierender Bürgermeister von Berlin | |
---|---|
![]() 州紋章 | |
地位 | ベルリン州首長 |
種類 | 市長 |
指名 | ベルリン市議会 |
初代就任 | エルンスト・ロイター(西ベルリン市長) |
創設 | 1948年12月7日 |
俸給 | 年額193,418.35ユーロ |
ウェブサイト | http://www.berlin.de/rbmskzl/ |
ベルリン市長(ベルリンしちょう、独: Regierender Bürgermeister von Berlin)は、ドイツの首都・ベルリン州の首長。
ベルリンはドイツを構成する連邦州の1つであるため(都市州)、ベルリン市長は各連邦州の州首相と同様の行政権限を有する。
概要
ベルリン市長はベルリン市議会によって選出される。
歴代市長
ナチスドイツ (1935年–1945年)
代 | 画像 | 氏名 | 在任期間 | 所属政党 | |
---|---|---|---|---|---|
就任 | 退任 | ||||
1 | ![]() |
オスカー・マレツキ | 1935年12月19日 | 1937年1月5日 | ドイツ人民党 |
2 | ![]() |
ユリウス・リッパート | 1937年1月5日 | 1940年7月 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
3 | ![]() |
ルートヴィヒ・シュテーク | 1940年7月 | 1945年5月2日 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
連合国軍占領下 (1945年–1948年)
代 | 画像 | 氏名 | 在任期間 | 所属政党 | |
---|---|---|---|---|---|
就任 | 退任 | ||||
1 | ![]() |
アルトゥール・ヴェルナー | 1945年5月17日 | 1946年12月10日 | 無所属 |
2 | ![]() |
オットー・オストロウスキー | 1946年12月10日 | 1947年6月11日 | ドイツ社会民主党 |
3 | ![]() |
ルイーズ・シュレーダー | 1947年6月11日 | 1948年12月7日 | ドイツ社会民主党 |
4 | ![]() |
フェルディナンド・フリーデンスブルク | 1948年8月14日 | 1948年12月1日 | キリスト教民主同盟 |
東西分裂 (1948年–1990年)
西ベルリン市長
|
東ベルリン市長
|
ベルリン統一後 (1990年–)
代 | 画像 | 氏名 | 在任期間 | 所属政党 | |
---|---|---|---|---|---|
就任 | 退任 | ||||
11 | ![]() |
ヴァルター・モンパー | 1990年10月3日 | 1991年1月24日 | ドイツ社会民主党 |
12 | ![]() |
エーベルハルト・ディープゲン | 1991年1月24日 | 2001年6月16日 | キリスト教民主同盟 |
13 | ![]() |
クラウス・ヴォーヴェライト | 2001年6月16日 | 2014年12月11日 | ドイツ社会民主党 |
14 | ![]() |
ミヒャエル・ミュラー | 2014年12月11日 | 2021年12月21日 | ドイツ社会民主党 |
15 | ![]() |
フランツィスカ・ギファイ | 2021年12月21日 | 2023年4月27日 | ドイツ社会民主党 |
16 | ![]() |
カイ・ウェグナー | 2023年4月27日 | 現職 | キリスト教民主同盟 |
脚注
外部リンク
ベルリン市長
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「クラウス・ヴォーヴェライト」の記事における「ベルリン市長」の解説
2001年、スキャンダルによるエーベルハルト・ディープゲン市長の不信任決議ののち、6月16日にベルリン市議会での議決でSPD、同盟90/緑の党、民主社会党 (PDS) の支持を得て、ベルリン市長に選出された。同年10月に前倒し実施されたベルリン市議会選挙で SPD は史上初めて第一党となり、政権基盤を固めた。連邦州首長の持ち回り順により、2001年11月1日より2002年10月31日までドイツ連邦参議院議長を務める。危機的な財政状況に対して緊縮財政、特に市職員の人員削減を行った。これによりベルリン市職員の労働時間は増加した。 非常に人気のある政治家であり、ベルリン市民からの評価も高い。2006年6月に実施されたベルリナー・ツァイトゥング紙の世論調査(ベルリン市民が対象)でも非常に高い評価を得ている。同年9月の市議会選挙で勝利し、3期目に入った。今後は連邦の政治に関与する機会を増やすと表明している。2011年9月18日のベルリン市議会選挙ではSPDは第一党を維持したが、ヴォーヴェライト自身は自身の選挙区でCDUの候補に敗れ、市議会の議席を失った。選挙後の連立交渉の結果、SPDとCDUの大連立政権が成立し、ヴォーヴェライトは引き続きベルリン市長を務めていた。 2014年には、ベルリン新空港の開港遅れをめぐって批判が高まっていたことなどを受けて辞任。ベルリン市議会は、後任に社会民主党のミヒャエル・ミュラー氏を新市長として選出した。現在は、ベルリンのシュプレー・ラディオでプレゼンターを務めている。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} ベルリン近郊のツォッセンにて(1991年11月10日) ウィーン市長のミヒャエル・ホイプルらと(2012年10月15日) 左からヴォーヴェライト、ラインラント=プファルツ州首相のマル・ドライヤー、連邦議会議員のマルクス・ヘルト(2013年8月12日)
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