ベルリン市議会議員及び連邦議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「ベルリン市議会議員及び連邦議員」の解説
ブラントがドイツ社会民主党に戻り、故郷のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の連邦議会議員候補になることを断って、ベルリンで活動を始めた頃は、ベルリンSPDではフランツ・ノイマンとエルンスト・ロイターとが党内で対立し、ブラントはロイターの側に立っていた。1949年8月にベルリン市議会でドイツ連邦共和国議会における初めてのベルリン代表議員の一人に選ばれた。同じ年にベルリンのヴィルマースドルフ支部の支部長となり、翌1950年には西ベルリン市議会議員にも当選する。この当時は彼の党内での基盤はまだ弱く、党内でのポスト争いで敗北を続けた、1952年4月の社会民主党の州委員長の選挙では193対63で敗れ、2年後も再度敗れて副委員長に収まっている。 ベルリン市議会でのSPDは1950年12月の選挙で20%の票を失い、1954年12月の選挙でも票を伸ばすことは出来なかった。しかしそれでも市議会では最大多数を占め、CDUと連立を組んで、市議会議長のポストを取っていた。そして1955年1月に市議会議長にブラントが決まった。この頃には西ベルリン市長エルンスト・ロイターが死去して、ブラントは政治的に頭角を現し始めていた。
※この「ベルリン市議会議員及び連邦議員」の解説は、「ヴィリー・ブラント」の解説の一部です。
「ベルリン市議会議員及び連邦議員」を含む「ヴィリー・ブラント」の記事については、「ヴィリー・ブラント」の概要を参照ください。
- ベルリン市議会議員及び連邦議員のページへのリンク