ジャイサイ
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ジャイサイ(モンゴル語: Jaisai、生没年不詳)は、17世紀初頭の内ハルハに属するホンギラト・オトクの領主。明代の漢文史料での表記は宰賽(zǎisài)など。内ハルハ諸部の中でも特にヌルハチに敵対的な態度を取っていたことで知られ、その結果ホンギラト・オトクは清朝によって解体されるに至った。
概要
出自
16世紀後半、内ハルハはフラハチの五子に分割相続され、ジャルート、バアリン、ホンギラト、バヨド、オジェートの五つのオトクによって構成されるようになった、この内、ホンギラト・オトクを継承したのがウバン・ブイム・ドクシンで、その次男のキタド・ホンタイジの息子がジャイサイであった。
『明神宗実録』には「自遼河以東、則宰賽・煖兎競長争雄……」との記載があり、ジャルート部のジョント・ハン(煖兎)とともに、内ハルハの中でも最も東北方の遼河以東の地域(現在の遼寧省鉄嶺市北部)に遊牧地があったようである[1]。内ハルハは五集団に分かれていたが、大きく南北に二分されてもおり、最初期は北方をジャルートのウバシ・ウイジェンが、南方をバアリンのシュブハイが代表していた[2]。その後台頭したのがホンギラトのジャイサイとオジェートのショーハで、ショーハが南方を押さえたのに対し、ジャイサイは北方を代表する領侯であった[2]。
慶雲堡への出兵
ジャイサイは17世紀初頭より史料上に現れ始め、1605年(万暦33年)4月には明の慶雲堡備禦の熊鑰を殺害するという事件を起こし[3]、明朝より市賞を停止させられた[4][5]。これによって経済的に困窮したジャイサイは、1607年(万暦35年)4月に北関夷酋(海西女直のイェヘ部)を仲介として「熊鑰の殺害は部下が勝手に行った事であり、その部下は献上する」と弁明し、市賞を再開されるに至ったという[6][5]。
ヌルハチの捕虜となる
16世紀初頭には建州女直を統一したヌルハチが東方で勢力を拡大しており、1616年(万暦44年/天命元年)には後金(アイシン)国が建国されていた。1618年(万暦46年/天命3年)、ヌルハチが明領の遼東地方に大挙して侵攻した際には(サルフの戦い)、ジャイサイと叔父のショーハが遼河の西岸、広寧の鎮静堡に駐屯して、明朝を牽制した[7]。このようにサルフの戦いで内ハルハ諸部は間接的にヌルハチを助けたが、これによって内ハルハとヌルハチが友好関係に転じたというわけではなく、特にジャイサイはヌルハチを未だ軽視していた。
1619年(万暦47年/天命4年)7月25日、ヌルハチが明領の鉄嶺城(tiyei ling ni hecen)を攻略したが、その夜ジャイサイら率いるモンゴル兵一万が巡邏中の女直兵を殺害するという事件が起こった[8]。前線の女直兵はモンゴル軍と戦端を開くべきか逡巡したが、ヌルハチ自らが城外に現れてこれまでジャイサイより受けた被害を六つ挙げ、攻撃を命じた[9]。そこでヌルハチの軍勢はジャイサイらを破って遼河まで追撃し、この一戦でジャイサイとその息子のセトキル(Setkil)・ケシクトゥ(Kesiktu)、ジャルート部のバク(Bak)・セブン(Sebun)兄弟、ホルチン部のミンガン(Minggan)の四男のサンガルジャイ(Sanggarjai)、計六人の王と百人余りが捕虜となった[10][11]。
『満文老档』はジャイサイが事を起こし捕縛されるに至った背景、経緯を次のように表現する[12]。
モンゴル国のハルハ五部において、ジャイサイの兵は衆く、家畜は多く、国は富んでいた。彼はそのように自分を強いとして、他の諸国に対して不遜で、凌辱・掠奪・殺害の行いをなしたことが多いので、諸国の者は皆彼を悪鬼のよううに憎み、見ていた。ジャイサイも自分自身を人間と思はなかった。天の近くを飛び行く大鳥のように、或いは獣の中の猛虎のように思って暮らしたジャイサイを天は非としたので、彼が二万の牧群の中から選んで乗った良馬の脚は天に縛られて馳けられず、山野に住む野生の虎のような身も抵抗することが出来ず、高梁田の中で下馬して二馬の轡の手綱を取つていたのをゲンギェン・ハンの末輩の甲士二人が捕えた。 — 『満文老档』巻11天明4年7月条
なお、この事件は漢文史料の『三朝遼事実録』にも記録があり、『明史』李化龍伝・董一元伝・韃靼伝などでも言及されるが、『明史』は誤ってジャイサイ(宰賽)をバアリンのシュブハイの孫としている[13]。
釈放交渉
ジャイサイら六王の捕縛を受け、かねてよりヌルハチに親和的であったバヨドのエンゲデルら内ハルハの諸王がヌルハチにジャイサイらの釈放を要請する使者を送った[14]。これを受けてヌルハチも同年9月5日に返書し、ジャイサイが今までヌルハチに対し数々の不義理を重ねてきたこと、また女直人を殺すことで明朝より金銀を受け取ろうと出兵したことに怒りを示しつつ、ジョリクト・ベイレ(オジェートのショーハを指す)の顔を立ててジャイサイを助命・拘禁していると申し伝えた[15]。またヌルハチは書の中で明朝こそが女直人とモンゴル人共通の敵であるとも述べ、これを受けて10月22日にショーハは明朝を共通の敵とすることで講和を行うことを申し出た[16]。これを受けて、内ハルハ諸王とヌルハチの使者が12月23日にガンガン・セテルヘイ(Gangan seterhei)の地に集って同盟が結ばれ、ジャイサイの子らは一時釈放されたが、ジャイサイの釈放は明領の広寧を攻略後に改めて協議することとなった[17]。
1621年(天啓元年/天命6年)8月3日、ジャイサイ釈放の条件として馬2千頭・牛3千頭・羊5千頭を携えたジャイサイの子らがヌルハチの下を訪れ、同月9日にジャイサイは二度とヌルハチに敵対しないことを誓い、18日に釈放された[18]。
晩年
釈放される際の誓約にも関わらず、ジャイサイは今度はチャハルに接近してヌルハチと敵対しようとしたようで、1625年(天啓5年/天命10年)にはホルチン部のオーバがヌルハチに「ショーハ配下のオジェートとバアリンは味方として信頼できるが、ホンギラトのジャイサイらはチャハルとともに攻めてくるかもしれない」と述べたという[19]。このような度重なる背信行為を受け、1626年(天啓6年/天命11年)にヌルハチは内ハルハ遠征を敢行し、同年中にヌルハチは死去したが、内ハルハへの出兵は後継者のホンタイジに引き継がれた[19]。一連の内ハルハ討伐の後、さらにチャハルのリンダン・ハーンによる攻撃もあって、ホンギラトとオジェートは事実上解体し、清代に存続することができなかった[20][21]。
ジャイサイらホンギラトの諸侯はチャハルに連れ去られたようで、以後数年にわたって清朝側の記録には現れなくなる[22]。8年後の1634年(崇禎7年/天聡8年)6月28日にはジャイサイの叔父のバガダルハンの一族が投降したとの記録があるが、ジャイサイについては同年閏8月6日の書簡で「ハルハのジャイサイの全てのものをこの(逃亡して)来る(チャハル部の)国人が皆奪い取って、夫婦の身だけで牛に乗って遊牧しているという。餓死しているかも知れない」と言及されるに留まる[22]。ジャイサイは死去の日時すら定かではなく、チャハルによって財産を掠奪され、困窮した生活の中で死去したようである[22]。
ただしこれでジャイサイの系譜が全く途絶えたわけではなく、ジャイサイの子のダイガル・タブナン(Daigal tabunang)とセレン・タイジ(Sereng taiji)兄弟(モンゴル年代記の『アルタン・クルドゥン』ではカン・アカイ/Qan aqaiとプヤン・アカイ/Buyan aqaiと表記する)が、同年9月29日にホンタイジに降ったとの記録がある[23]。このうち、ダイガル・タブナンは別の史料でチャハルから離叛して八旗に分配された大臣の一人として言及され、実在していたことが確認出来る[23]。ただしホンギラトの名を冠したニルは史料上に見当たらず、単独のニルを編成するだけの規模がないまま、八旗に編入されてしまったようである[23]。
内ハルハ系図
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アルチュ・ボラト Alču bolad |
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フラハチ・タイジ Qurqači tayiǰi |
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ウバシ・ウイジェン Ubasi üijeng |
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シュブハイ・ダルハン Subuqai darqan |
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ウバン・ブイム・ドクシン Uban buyimu doγsin |
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ソニン・ダイチン Sonin daicing |
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ショーハ・ジョリクト Siuqa joriγtu |
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ジャルート・オトク J̌arud Otoγ |
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バアリン・オトク Baγarin Otoγ |
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ホンギラト・オトク Qonggirad Otoγ |
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バヨド・オトク Bayaud Otoγ |
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オジェート・オトク Öǰiyed Otoγ |
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脚注
- ^ 和田 1959, pp. 630–631.
- ^ a b 和田 1959, pp. 634–635.
- ^ 『明神宗実録』万暦三十三年四月己酉(五日),「東虜酋首宰賽誘殺慶雲堡備禦熊鑰及拆毀墩台、戕擄軍役、督撫按連疏報聞、并酌議剿処。兵科都給事中田大益因言、宰賽父伯言児先年誘殺備禦王鳳翔、止議革賞、未及搗剿、失事各官亦止革任罰俸而已。虜日驕、将日玩、是以復有今日之事。況各辺諸部所在生心、処置失宜、禍患立至。乞勅該鎮厚兵密諜、期一大創。失事各官厳行勘核、悉従兵律、庶辺事可復振耳。下兵部覆議、得旨、宰賽著停革市賞、行該督撫鎮道相機処置。失事将領并有無隠匿事情、巡按官査明具奏」
- ^ 『明神宗実録』万暦三十三年七月乙酉(十三日),「兵部言、虜酋宰賽誘殺備禦熊鑰、已奉旨停革市賞矣。今督撫蹇達等恐生其疑畏、難以計処、議欲照旧市賞、以安其心、然後熟計情形、徐図剿創。総之、慎挙動以保万全之意。惟是虜性狡黠難馴、未可輒為寛縦。彼既背恩犯順、我当閉関罷款、亦事勢之不得不然也。事関辺務軍機、仍応遵照前旨。従之」
- ^ a b 和田 1959, p. 606.
- ^ 『明神宗実録』万暦三十五年四月乙未(三日),「復宰賽市賞、梟哈大得棒以示関外。自長昂復貢而後、宰賽復請開市、執哈大得棒以解新河之忿。督臣以河西未定、重失五路心。乃疏言、宰賽自絶款以来、垂涎市賞之利、屡因北関夷酋扣関請罪、且謂当時殺虜官軍、乃部夷忿激、本酋実未知情、業已縛献凶夷、送還尸首。軍丁馬甲文遣中軍鑽刀説誓、求復市賞、詞若恭順、情亦可原。兼之河西幼酋未振、虜正厳防、我難軽挙。議将宰賽市賞暫准開復、亦謂饑附飽颺、乃犬羊之故態、欲取姑与、亦兵家之経権也。至于按臣勘明失事各官、如李叢梧・張汝政・万全・曹文燾等、或乏固圉之防、或無応変之策、或袖手于同舟、或疾視其長上、故違軍法、辺戍何辞。王紹芳等或先駆後期、或探報訛謬、倶応分別、以示創懲。熊鑰死事甚惨、宜優恤以慰忠魂。於是兵部覆上李叢梧・張汝政等各発大同・平虜等衛所充軍、熊鑰後准襲陞二級、兵備楊位免究、餘贖決有差。蓋自属夷不靖以来、文臣備兵率従寛政、無重処者」
- ^ 楠木 2009, p. 23-24.
- ^ 満文老档研究会 1955, pp. 165–166.
- ^ 満文老档研究会 1955, pp. 166–167.
- ^ 和田 1959, pp. 605–606.
- ^ 楠木 2009, p. 24.
- ^ 満文老档研究会 1955, p. 170.
- ^ 和田 1959, pp. 606–607.
- ^ 楠木 2009, pp. 24–25.
- ^ 満文老档研究会 1955, pp. 191–193.
- ^ 満文老档研究会 1955, pp. 193–194.
- ^ 楠木 2009, p. 25.
- ^ 満文老档研究会 1955, pp. 366–367.
- ^ a b 楠木 2009, p. 29.
- ^ 和田 1959, pp. 609–610.
- ^ 楠木 2009, pp. 29–30.
- ^ a b c 楠木 2009, p. 30.
- ^ a b c 楠木 2009, p. 31.
- ^ 楠木 2009, p. 21.
- ^ 井上 2002, pp. 558–559.
参考文献
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- 岡洋樹「北元から淸へ --淸朝の外藩統治形成の 歴史的経緯--」『東洋史研究』第81巻第2号、東洋史研究会、2022年6月、164-126頁、 CRID 1390584565601135232、 ISSN 03869059、 NCID AN00170019。
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年10月。 ISBN 978-4887082434。
- 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年3月。 ISBN 978-4759913187。
- 楠木賢道『清初対モンゴル政策史の研究』汲古書院、2009年12月。 ISBN 978-4762925863。
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- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- 満文老档研究会『満文老档1(東洋文庫叢刊;第12)』東洋文庫、1955年。
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