YOSHIMURA R&D 立ち上げ
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「吉村秀雄」の記事における「YOSHIMURA R&D 立ち上げ」の解説
帰国すると吉村はひとまず神奈川県厚木市で生活する次女、由美子の下に身を寄せ、森脇の工場で部品製造に取り組むことにした。幸いなことに日本はビッグバイクブームが訪れ、吉村の作る集合管は順調に売り上げをのばした。また、イギリスのデビット・ディクソンやオーストラリアのロス・ハナンといった海外の経営者達からの代理販売の提案も得られた。そうして力を蓄えつつ、アメリカでの再起のチャンスを伺う日々が続いた。こうして吉村は1975年4月、再び渡米した。だがこの時、アメリカで立ち上げに尽力していた不二雄が一時帰国し、再びアメリカに入国しようとするとビザが下りないという事態が発生した。ヨシムラレーシングの社員ということでアメリカに入国していた不二雄に対し、デール、スター両名が手を回して入国を妨害したのだった。不二雄は森脇のところに身を寄せ、ビザが下りるまで日本から支援することしかできなかった。 再渡米から2ヵ月後の1975年6月1日、吉村はロサンゼルス郊外、ノースハリウッドに「YOSHIMURA R&D」を設立。カタカナの「ヨシムラ」は商標登録され、使えないための屋号であった。1976年11月には不二雄もビザが下り、渡米することができた。デール、スター両名は「ヨシムラレーシング」を「デール・スター・エンジニアリング」と改名し、独自に製品を製造、販売していたが、結局倒産した。しばらくしてデール・アレキサンダーは職業上の立場を利用し、秋川で購入した商品を税関を通さず密輸し、不正な利益を獲ていたとして裁判にかけられ、罰金50,000ドルが課せられた。そして2年後には心臓麻痺を起こして死んだ。
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