RCルーベの支配 (1901-1908)
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「USFSAフランスサッカー選手権」の記事における「RCルーベの支配 (1901-1908)」の解説
各シーズン結果シーズン優勝1902 RCルーベ (1/5) 1903 RCルーベ (2/5) 1904 RCルーベ (3/5) 1905 ガリア・クラブ (1/1) 1906 RCルーベ (4/5) 1907 ラシン・クラブ・ド・フランス (1/1) 1908 RCルーベ (5/5) 時代は20世紀に入ったが、この世紀の変わり目はフランスの地方におけるサッカークラブの急増の時期であった。これに応じてフランス選手権出場枠も増加し、1902年には4クラブ、1903年には9クラブ、1905年には13クラブ、1908年には18クラブになった。シーズンの大半は地方選手権に費やされ、そして最後に全国選手権がトーナメント式で行われた。しかしフランス全国でサッカークラブが増加していたにもかかわらず、ノール県のクラブのタイトル独占が続いた。1902年の決勝はパリのラシン・クラブ・ド・フランス対ルーベのRCルーベの対戦となり、3-3の同点のままゴールデンゴール方式・20分間の延長戦に入った。延長13分にルーベのピーコック (Peacook)が得点し、2時間30分の試合に決着をつけルーベーが初優勝した。翌年も同じ対戦となったが、今度はルーベが3-1で勝って連覇した。1904年はルーベがパリのユナイテッド・スポーツクラブを4-2で下して3連覇した。選手権創設からまもなく10年になろうというこの時期、覇権は完全にノール県に移った。 パリのガリア・クラブは1905年度に1-0で圧倒的劣勢ながらもルーベを下し、タイトルをパリに取り戻した。この時の決勝も30分ハーフの延長戦による合計2時間30分の長丁場となった。この試合に感銘を受けたUSFSA副会長のアンドレ・ビリーは、パリ代表とノール県代表の試合を年1回開催しようと思い立った。1906年1月7日に組まれた試合はノール県代表が3-0で勝利し、これにより同地からも代表チームに選手が召集されるようになった。四か月後、RCルーベもまた選手権決勝でパリのCAPシャラントンを4-1で下し、4回目の優勝を決めた。1907年の決勝では、RCルーベとラシン・クラブ・ド・フランスの3度目の頂上対決となり、ラシンが3-2で勝ってサッカー部門初の全国優勝を成し遂げたが、これは最初で最後だった。翌1908年もまた同じ顔合わせとなったが、今度はルーベが2-1で勝って5回目の優勝を決め、スタンダードの記録に並んだ。だが皮肉なことに、これがルーベの最後の栄光ともなった。その後もノール県は一大勢力であり続けるものの、その中にルーベは生き残れなかった。
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