75年後
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2013年2月21日発行の『読売新聞大阪版(夕刊)』に掲載されている記事によれば、2012年10月13日から14日にかけてオランダで殉教75周年を記念する式典が行われ、日本から参加した司祭は式典中、日本カトリック司教協議会会長の池長潤大司教の書簡を代読した。この書簡には「フランス・スフラーヴェン司教は、女子修道院に逃げ込んだ中国人女性の中から200人を慰安婦として差し出すよう求められたのを拒み、焼き殺された」という内容が記載されている。 2月21日府付『読売新聞』に掲載されている記事に対して、カトリック信徒有志による「教会の政治的言動を憂慮する会」から池長潤大司教宛てに公開質問状が送られた。 2013年4月11日付けのカトリック新聞オンライン「旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進」によれば、殺害された9人は、フランス・スフラーヴェン司教(聖ビンセンシオの宣教会、オランダ人)と、主に同会のクロアチア、フランス、オランダ、ポーランド、スロバキア出身者の司祭、修道士、信徒がおり、厳律シトー会(トラピスト)の神父1人も含まれ、この9人は、1937年10月9日、中国河北省の正定に入った日本軍が、教会施設にいた避難民の中から200人の女性(少女を含む)を引き渡すよう求めたことに抵抗したため、目隠しされて首にロープを巻かれ、トラックで約300メートル離れた仏塔近くに連行され殺害されたとされる。事件から1ヶ月後の11月19日、カトリック信徒の横山少佐率いる日本軍の「宣撫班」および、司祭の田口芳五郎が現地入りし、天津の司教を招いて同年11月22日、正定で追悼のミサを行った。日本軍関係者約30人(うち高官が3人)も参列し、日本軍幹部の弔電も届き、聖堂で読まれたという。
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