3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』とは? わかりやすく解説

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3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:28 UTC 版)

ザ・スミス」の記事における「3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』」の解説

1985年ザ・スミスにとって、スタジオでサード・アルバムの収録しながらイギリスアメリカでツアー続け苛酷な1年だった。翌年、まずシングル「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」がリリースされ、間をおかずに1986年6月アルバムザ・クイーン・イズ・デッド』が発売された。UKチャートでは最高2位となり、音楽誌SPIN」の1989年特集これまで制作された最高のアルバム」では第1位に選ばれた。その他NME紙やメロディ・メイカー紙など、数多くロック誌や音楽出版物の行う「グレイテスト・アルバム」企画では、『ザ・クイーン・イズ・デッド』がしばしばトップ10ランクインしている。2006年6月には、NME全紙面を使ってクイーン・イズ・デッド発売20周年特集組んだまた、アルバム収録の「ゼア・イズ・ア・ライト・ネヴァー・ゴーズ・アウト」は活動中シングルカットされたものではなかったにかかわらず2012年現在でも最もファン支持集める曲の一つである。 しかし、バンドにとって全てが順調というわけには行かなかった。ラフ・トレードとの契約を巡る紛争で、このアルバム発売大幅に遅れたまた、メンバーバンド多忙なスケジュールイギリスメディア口さがないゴシップ記事アメリカでレコード各社による契約争奪戦、その一方でアメリカセールス不調などで燃えつきかけ、ストレス抱えていた。 マーは後にNMEとのインタビューで、「当時のことは『不調』という言葉では半分言い表せない。僕はものすごく病気だった。ツアーが完全に終わるまでにはちょっと…危険な状態だった。僕は自分抑えられる上の量の酒を飲んでいた」と語っている。そのころ1986年初頭にはルークヘロインによる問題バンドを首になっていた。彼は車のフロントガラス張られポスト・イット解雇通知受け取った文面は「アンディ ― 君はザ・スミス去ったさような幸運を祈る。モリッシー」というものだった。 しかし、2009年9月モリッシー自身ファン・サイトTruetoyou.net上で「そんなポストカードを俺はこれまで書いたとがないし、解雇知らせポストカードアンディの車に置いた覚えもない」と発言してこれを否定している。 ルーク代役として、ベース短期間クレイグ・ギャノン(Craig Gannon)が入ったが、ルークはわずか2週間復帰認められた。ギャノンザ・スミスとどまりリズム・ギター転向したギャノン加え5人で収録したシングルパニック」と、さらにカースティー・マッコールがバッキングボーカル入ったシングルアスク」は1986年夏から秋にかけてリリースされ成功収め、5人体になったバンドイギリスツアー行ったギャノンツアー終了後1986年10月バンド去っている。

※この「3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』」の解説は、「ザ・スミス」の解説の一部です。
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