3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』
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「ザ・スミス」の記事における「3rdアルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』」の解説
1985年はザ・スミスにとって、スタジオでサード・アルバムの収録をしながら、イギリスとアメリカでツアーを続ける苛酷な1年だった。翌年、まずシングル「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」がリリースされ、間をおかずに1986年6月、アルバム『ザ・クイーン・イズ・デッド』が発売された。UKチャートでは最高2位となり、音楽誌「SPIN」の1989年の特集「これまで制作された最高のアルバム」では第1位に選ばれた。その他NME紙やメロディ・メイカー紙など、数多くのロック誌や音楽出版物の行う「グレイテスト・アルバム」企画では、『ザ・クイーン・イズ・デッド』がしばしばトップ10にランクインしている。2006年6月には、NMEは全紙面を使って『クイーン・イズ・デッド』発売20周年特集を組んだ。また、同アルバム収録の「ゼア・イズ・ア・ライト・ネヴァー・ゴーズ・アウト」は活動中にシングルカットされたものではなかったにもかかわらず、2012年現在でも最もファンの支持を集める曲の一つである。 しかし、バンドにとって全てが順調というわけには行かなかった。ラフ・トレードとの契約を巡る紛争で、このアルバムは発売が大幅に遅れた。また、メンバーはバンドの多忙なスケジュール、イギリスのメディアの口さがないゴシップ記事、アメリカでのレコード各社による契約争奪戦、その一方でのアメリカのセールスの不調などで燃えつきかけ、ストレスを抱えていた。 マーは後にNMEとのインタビューで、「当時のことは『不調』という言葉では半分も言い表せない。僕はものすごく病気だった。ツアーが完全に終わるまでにはちょっと…危険な状態だった。僕は自分を抑えられる以上の量の酒を飲んでいた」と語っている。そのころ1986年初頭にはルークもヘロインによる問題でバンドを首になっていた。彼は車のフロントガラスに張られたポスト・イットで解雇通知を受け取った。文面は「アンディ ― 君はザ・スミスを去った。さようなら幸運を祈る。モリッシー」というものだった。 しかし、2009年9月にモリッシーは自身のファン・サイトTruetoyou.net上で「そんなポストカードを俺はこれまで書いたことがないし、解雇を知らせるポストカードをアンディの車に置いた覚えもない」と発言してこれを否定している。 ルークの代役として、ベースに短期間クレイグ・ギャノン(Craig Gannon)が入ったが、ルークはわずか2週間で復帰を認められた。ギャノンはザ・スミスにとどまり、リズム・ギターに転向した。ギャノンを加え5人で収録したシングル「パニック」と、さらにカースティー・マッコールがバッキングボーカルに入ったシングル「アスク」は1986年夏から秋にかけてリリースされ成功を収め、5人体制になったバンドはイギリスツアーも行った。ギャノンはツアー終了後の1986年10月にバンドを去っている。
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