3ヶ国支配の朱印状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:15 UTC 版)
「天神山城の戦い」の記事における「3ヶ国支配の朱印状」の解説
天正元年(1573年)になると毛利と大友・浦上などとの直接の争いは無くなったものの、但馬・因幡の両山名氏や大友・浦上の支援する尼子再興軍や美作三浦氏の反毛利活動は未だに続いており、因幡国で山中幸盛と牧尚春、伯耆日野衆が毛利方の城を攻撃していた。一方で毛利方も状況を打破すべく動き出しており、同年中に宇喜多直家と急接近し、10月には毛利の兵が美作の奥津・才原(現在の岡山県苫田郡付近)に入り、直家と連携する姿勢を見せている。一方で11月に浦上宗景は上洛して織田信長に謁見し、播磨で争っていた別所長治との和平を仲介してもらったが、更にこの席で「備前・播磨・美作安堵の朱印」を得た。同年12月に毛利は安国寺恵瓊を派遣して織田信長に尼子再興軍への対応を求め、信長は恵瓊に「山中幸盛が柴田勝家を通じて取り成しを求めているがこれは許容しない」という旨を記した朱印状を与え、翌年2月の羽柴秀吉の但馬出兵を約束した。また、安国寺恵瓊は派遣された京で信長が浦上宗景に「備前・播磨・美作安堵の朱印」を与えたという情報を仕入れ、これを織田氏の芸州進出の準備であると国元へ警告している。翌天正2年(1574年)になっても秀吉の援軍は無いまま尼子再興軍は山陰で活動し続けており、信長は毛利との約束を反故にした形となった。 足利義昭への工作においては浦上宗景に先んじており、幕府より所領の独立性を認められた宇喜多直家であったが織田信長への工作では宗景に逆転された形で、信長が義昭を追放すると浦上氏に3ヶ国安堵の朱印状が発給され、宇喜多氏の独立性が中央に否定されかねない状況に陥っていた。直家は義昭の仲介でようやく結ばれた備芸和平を軽視した宗景の行動を『宗景存外之御覚悟』として驚いたが、織田の後ろ盾を得た宗景に対抗するべく、直家も毛利との連携を強化していく。
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