2001年~ 再建への試行錯誤
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「ラグビー日本代表」の記事における「2001年~ 再建への試行錯誤」の解説
学閥排除でも不調 平尾の辞任を受け、宿澤広朗が強化委員長に就任。宿澤からのオファーにより、2001年から大正製薬が日本代表のスポンサーになった。 宿澤は、自身の出身校である早稲田大学を含めた、日本ラグビー界にはびこる「学閥」の排除の意味も込めて、監督時代に東芝府中の黄金時代を築いた、東海大学出身の向井昭吾を監督に招へいした。 向井は、東芝府中監督時代に「PからGO」のキャッチフレーズを掲げ、相手がペナルティを与えられたらペナルティキックやラインアウトへのキックを狙わずに間髪入れず素早い攻撃を仕掛けるという戦法を駆使し、日本選手権3連覇などの実績を挙げていた。また「PからGO」の戦法は、体格に劣る日本代表にも合致していると思われた。しかも、向井時代の代表選手には、大畑大介と小野澤宏時というフィニッシャーがいたからなおさらだった。 日本の「速いラグビー」戦術に対し、他国チームは逆に、スクラムやラインアウトといったセットプレーが日本の弱点だと考え、とりわけ強豪国はそこを突いてきた。日本はフィジカル不足などのためほとんどそれに対応できなかった。 向井時代にテストマッチでアジア諸国以外のチームから勝ち星を得たのは、2001年のカナダ戦と、試合にスポンサーがついた初めての「リポビタンDチャレンジカップ」となる2002年ロシア戦の2勝のみだった。 W杯地区予選となる2002年アジア3国対抗では、2002年7月6日に国立競技場で行われたチャイニーズタイペイ戦で155-3で勝利し、日本代表としては最多得点試合となった。さらに韓国にも勝利し、W杯出場権を得た。しかし、秋からのアジアラグビーフットボール大会では韓国に敗れ優勝を逃した。
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