2代目山口電灯の再起
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1911年(明治44年)8月、山口電灯所では発電設備の更新が実施され、ブリティッシュ・トムソン・ヒューストン (BTH) 製の125キロワット単相交流発電機が新設された。山口電灯所の電灯数は1902年以来1000灯余りで停滞していたが、設備更新を機に増加し始める。翌年に電灯料金が10燭灯で10銭の値下げとなったことも増加傾向を強めた。 1914年(大正3年)1月1日、県内出身の実業家葛原猪平が11万円にて山口電灯所を賀田から買い受けた。買収後、葛原は事業を個人経営から株式会社組織へと改組し、同年10月23日、2代目の山口電灯株式会社を設立した。葛原は2代目山口電灯の社長となり、事業の拡大を推進していく。その第一弾が大井川での水力発電所建設であり、1914年6月に水利権を取得、1916年(大正5年)6月に阿武郡紫福村(現・萩市紫福)にて大井川発電所を完成させた。この大井川発電所は山口県最初の水力発電所である。発電所出力は300キロワット(のち640キロワット)で、9月には発電所と山口・小郡・萩の3つの変電所とを結ぶ22キロボルト送電線による送電も始まった。 水力発電所建設に伴い2度にわたって料金が改訂され、1916年8月以降は16燭灯の場合月額85銭となった。料金引き下げに加え供給区域が阿武郡・美祢郡にも広がったことで、電灯数は1916年末には約1万1500灯まで伸長する。また大口の電力需要家も出現し、小郡の小郡電灯や阿武郡の川井川鉱山に供給するようになった。
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