1990年–1996年:議会君主制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:32 UTC 版)
「ネパールの政治」の記事における「1990年–1996年:議会君主制」の解説
事実上の国王の独裁は、国民の運動(ジャナ・アンドラン)に直面し、1990年、ビレンドラ国王は国王を国家の長(元首)とし、首相を政府の長とする複数政党制による議会君主制民主主義に同意した。(同時にパンチャーヤト制も廃止され1990年憲法が制定される。) 1990年憲法の規定するネパールの立法機関は二院制であり、下院(代表院)と上院(国家評議会)からなっていた。下院は国民から直接選ばれた205人の議員からなる。上院は定員60人、そのうち10人は国王から選ばれ、35人は下院から選ばれる。残りの15人は、町村から選ばれた人たちの団体によって選ばれる。 上下両院の任期は5年であるが、任期途中でも国王が解散した場合は任期が終了する。18歳以上のすべての国民には投票権を有している。 行政権は国王と閣僚会議(内閣)からなり、連立内閣のリーダーもしくは選挙で最大の議席を得た政党からは首相が選ばれた。閣僚は首相の推薦により、国王が指名した。 軍の最高指揮権は国王にあった。これが後に民主主義を後退させる原因となる。 ネパールにおける政権は非常に不安定な傾向があった。1991年以来、二年以上続いた内閣はなかった。内紛で崩壊するか、国王による議会の解散によるものでいずれも短命に終わった。1991年に行われた、30年ぶりの自由で公正な立法議会選挙では、ネパール会議派が勝利しギリジャー・プラサード・コイララが首相に選出された。 1994年の立法議会選挙ではネパール統一共産党が第一党となり、ネパールはアジアで初の共産党に指導された君主国となり、マン・モハン・アディカリが首相となった。しかし、一年たたずしてネパール会議派と国民民主党が内閣不信任案を可決しあっけなく倒れた。 その後で行われた1994年11月15日の総選挙では過半数を獲得した政党がなく、数年間、不安定な連立内閣の時代が続いた。1999年5月の総選挙ではネパール会議派が過半数を占め、単独内閣を組織した。この選挙以来、3人のネパール会議派の首相が続いた。 クリシュナ・プラサード・バッタライ 1999年5月31日-2000年3月17日 ギリジャー・プラサード・コイララ 2000年3月20日-2001年7月19日 シェール・バハドゥル・デウバ 2001年7月23日-2002年10月4日
※この「1990年–1996年:議会君主制」の解説は、「ネパールの政治」の解説の一部です。
「1990年–1996年:議会君主制」を含む「ネパールの政治」の記事については、「ネパールの政治」の概要を参照ください。
- 1990年–1996年:議会君主制のページへのリンク