1988年 世界ランク100位入り
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「松岡修造」の記事における「1988年 世界ランク100位入り」の解説
このようなツアー下部大会を中心に転戦する生活は、2年ほど続き、更にこの間コーチのブレットが当時世界ランク2位のボリス・ベッカー(西ドイツ)のコーチとなるため松岡から離れ、新たなコーチとして同じホップマン・キャンプのコーチであったロッド・フェルナンデスと契約。1988年頃から本格的にツアーレベルの大会に出場するようになり、1月の全豪オープンで予選を勝ち上がりグランドスラムシングルス初出場を果たすと、ノーシードで出場した4月のサントリー・ジャパン・オープンでは、1回戦で主催者推薦の土橋登志久を6-2, 6-3のストレートで、2回戦でジョナサン・キャンター(英語版)を6-2, 6-4のストレートで、3回戦では当時世界7位の大会第2シードミロスラフ・メチージュを7-6, 6-3のストレートで破る番狂わせを起こし、自身初のツアーシングルスベスト8に進出。続く準々決勝では第7シードのジョン・マッケンローに敗れたものの、スコアは6-7, 6-7のストレートと予想以上に善戦し、大会当時271位だった松岡のランキングは、一気に149位まで上昇した。これで自信を付けた松岡は、さらにノーシードで本戦から出場した8月の全米オープンの1回戦で、サイモン・ユール(英語版)を3-6, 6-4, 6-3, 6-2で破り、グランドスラムシングルス初勝利を挙げると、続いて出場した9月のソウルオリンピックアジア予選ではジーシャン・アリ(英語版)、シャハー・ペルキス(英語版)ら当時のアジア強豪選手を次々とストレートで破り、オリンピック初出場を果たす。 10月第1週のクイーンズランド・オープンでは1回戦でピーター・ドゥーハン(英語版)を6-4, 6-4のストレートで、2回戦で日系カナダ人のグレン・ミチバタを6-4, 6-7, 7-6のフルセットで、準々決勝でジェイソン・ストルテンバーグを6-3, 6-4のストレートで破り、当時世界ランク9位の大会第1シードティム・メイヨットとの準決勝まで進出し、10月第2週のスワン・プレミアム・オープン(英語版)では1回戦で当時世界ランク62位の大会第8シードジョーイ・ライヴ(英語版)を4-6, 7-6, 6-3のフルセットで、2回戦でマーク・クラッツマン(英語版)を6-1, 7-6のストレートでそれぞれ破り、当時世界ランク21位の大会第2シードアンドレス・ゴメスとの準々決勝まで進出。 主催者推薦で出場した10月第3週のセイコー・スーパー・テニスでは、1回戦で当時世界ランク26位のダレン・ケーヒルを7-6, 6-1のストレートで、2回戦でマーティン・デイヴィス(英語版)を7-5, 7-6のストレートで破り、リチャード・マトシェウスキ(英語版)との準々決勝まで進出するなど、3週連続で好成績を収めた。2番目のコーチであったフェルナンデスとは今一つ相性が悪く、シーズン中新たにブレッドから紹介されたアルバロ・ベッタンコにコーチを変更するといった環境の変化もあったものの、これらの活躍によりシングルスランキングも年初の252位から年度末には82位と大幅に上昇、日本人選手としては1976年に76位でシーズンを終えた九鬼潤以来12年振りの年間トップ100入りを果たし、JTAランキングにおいても1981年から7年連続で年間1位の座を保持してきた福井烈を抜き日本人選手トップに立った。当初ブレッドと話していた「5年で100位内に入れれば上出来」という目標を大幅に短縮し僅か3年でトップ100入りを果たした松岡は、こうして「世界に通用する日本人プレイヤー」として一躍注目を浴びるようになったのである。
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