1980年代: 初期キャリア
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「ベビ・ドル」の記事における「1980年代: 初期キャリア」の解説
ベビ・ドルはソロ歌手としての活動を始め、当時恋人であったゴラン・ヴェイヴォダと共同で「Mustafa / Na planeti uzdaha」をPGP RTBからリリースした。A面の楽曲「Mustafa」はオリエント風のオリジナル作品であり、1980年の今年の一曲に選ばれ、ベビ・ドルは最優秀新人賞に選ばれた。 初期の成功に勢いづき、ベビ・ドルはフル・アルバムの製作にとりかかり、1983年にアルバムは『Ruže i krv』(バラと血)のタイトルで発売された。最優秀デビュー・アルバムの受賞に加え、多くの好評を受け、また商業的にも成功したアルバムとなった。既に知られたヒット曲「Mustafa」のほかに、「Rudi」(この曲は1995年に2枚目のアルバム『Ritam srca』にも、リミックス・バージョンの「Rudi (se budi)」とともに収録された)や、タイトル・トラックの「Ruže i krv」、「Lapis lazzuli」がこのアルバムに収められた。「Lapis lazzuli」には風変わりなビデオクリップも製作された。 ベビ・ドルのユーゴスラビアでの人気をうけて、カイロのシェラトン・ホテルで歌う契約のオファーがあり、ベビ・ドルはこれを受けた。彼女は1984年から1986年までの2年間をエジプトで過ごした。 1986年、ベビ・ドルはユーゴスラビアに戻りった。MESAM音楽祭でベビ・ドルは、最初のヒット曲「Mustafa」を想起させるようなオリエンタル風の文化や音楽の影響を受けた楽曲「Insh-Allah」をリリースした。1987年、ベビ・ドルは2回目の挑戦となるユーロビジョン・ソング・コンテストのユーゴスラビア代表を選ぶ国内大会(ユーゴヴィジヤ)に参加し、「Zrno nežnosti」を歌って4位となった。翌年の1988年には同国内大会で「Zatvori mama prozore」を歌って3位となった。同年、ベビ・ドルはMESAM音楽祭にて「Slatke suze ljubavi」(愛の甘美な涙)を歌って2位となった。良く1989年、ベビ・ドルは再びMESAM音楽祭に参加し、「Kad sreća odlazi」を歌って3位となった。この楽曲は審査員からは最高の評価を受け、特別賞を受賞した。
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