1947年のパリ滞在とディオールの「ニュールック」
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「リチャード・アヴェドン」の記事における「1947年のパリ滞在とディオールの「ニュールック」」の解説
1947年夏、『ハーパース・バザー』誌のカーメル・スノウはパリ・コレクション(オートクチュール・コレクション)を撮影させる為、アヴェドンをパリに向かわせた。ただし同誌の1947年秋冬のパリ・オートクチュール・コレクションはすでにルイーズ・ダール=ウォルフが受注していた上、ダール=ウォルフは若いアヴェドンの作風を毛嫌いしていたので、アヴェドンは「ダール=ウォルフには見つからないように」との指示を受けていた。その結果、アヴェドンはパリ・コレクションの会場にはあまり足を運べず、パリの街を歩き回ることになった。 この渡仏においてアヴェドンはRenéeをモデルとしたディオールのいわゆる「ニュールック」の一連の写真を撮影し、『ハーパース・バザー』誌1947年10月号に掲載された。この時の作品は初期のアヴェドンのファッション写真の特徴であるダイナミックなモデルの動き、パリの街並みを利用した映画風の演出、斬新なカメラ位置、ブレやボケなどの諸特徴をすでに備えていた。アヴェドンがひんぱんに用いた被写体ブレやボケは、彼の登場の10年ほど前に活動していたグループf/64のようなパンフォーカスが主流であった当時のアメリカ写真界では極めて異質なものであり、『ザ・ニューヨーカー』誌は「アヴェドン・ブラー」(Avedon Blur )という語をわざわざ考案してアヴェドンの作風を揶揄した。パリの街をファッション写真の背景に多用する手法については、アヴェドンの師であるブロドヴィッチがデザインを担当して1945年に出版されたケルテース・アンドルの写真集Days of Paris、あるいはブラッシャイ、ウィリー・ロニス、エデュアール・ブーバ(Édouard Boubat )、ロベール・ドアノー、ジェルメーヌ・クルルら東欧からの移民を中心とする写真家達によるパリを題材とした写真群の影響が指摘されている。 1947年のパリ・オートクチュール・秋冬コレクションの写真の『ハーパース・バザー』掲載数においてアヴェドンはダール=ウォルフを上回り、(ダール=ウォルフは激怒したものの)アヴェドンは同誌での地位を確固たるものとした。 1948年にはカーメル・スノウのセッティングにより、アヴェドンはココ・シャネルのポートレートを撮影している。ナチのフランス占領中より戦後までココ・シャネルはナチの高官と愛人関係にあったためフランスでの立場は微妙なものであったが、アヴェドンはパリの街角に偶然残っていた「もしもヒトラーが原爆を手に入れていたら」と書かれたポスターの下にシャネルを立たせて撮影を行った上、カーメル・スノウの想像を超える過激な文言を写真に添えようとしたため、スノウは震え上がってこの写真の誌面掲載を見送った。ただしアヴェドンとシャネルはお互いに非常に好感を持っていたという。
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