1946年 - 1953年
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「ジャンゴ・ラインハルト」の記事における「1946年 - 1953年」の解説
1946年1月、ジャンゴはイギリスに渡り、再びステファン・グラッペリと共演する。同年、ジャンゴはデューク・エリントンに招かれて、初のアメリカ・ツアーを行った。11月4日にエリントンと初のリハーサルを行った際、エリントンの「1曲目のキーは何にする?」という質問に対し、ジャンゴは「キーなんてない」と答えてエリントンを戸惑わせたが、見事にエリントンの演奏についていったという。また、11月24日にカーネギー・ホールで行われたエリントンとの共演コンサートでは、ジャンゴが大幅に遅刻してしまい、エリントンはジャンゴが出演できなくなったとアナウンスしたが、終演ぎりぎりにジャンゴが到着したというエピソードがある。エリントンと共に行ったツアーのうち、シカゴ公演での共演は録音も残されている。 1949年初頭、盟友ステファン・グラッペリと共にローマに渡り、現地のミュージシャンと共にクラブで演奏。この時の録音は、1961年に『ジャンゴロジー』というLPにまとめられた。同作は、録音状態は悪いながらもジャンゴとステファンの作品の中でも特によく知られた一枚とされている。その後ジャンゴは家を売って、キャラバンを牽引するためのリンカーンを購入し、しばらくル・ブルジェ周辺でキャラバン生活をするようになる。1951年からはセーヌ=エ=マルヌ県で家を借りる。 1953年3月、ジャンゴはディジー・ガレスピーのブリュッセル公演にゲスト参加した。旧知のプロモーターから依頼を受けたジャンゴは、最初は乗り気でなかったが、出演者がディジーであることを知ると態度を変え、すぐに滞在先のホテルから公演会場へ向かったという。5月、スイス公演を行っていたジャンゴは指の障害や頭痛に悩まされるようになるが、診察を受けることは拒否し続けた。この頃、ビング・クロスビーがジャンゴをスカウトするためにフランスを訪れているが、ジャンゴに会えずじまいのまま帰国しており、フランスへ戻る途中でそのことを知ったジャンゴは「自分にはもう運は向いてこない」と感じたという。 フランスへ戻った翌日の5月16日、ジャンゴは友人の経営する店で突然倒れ、その日の夕方には死去。死因は脳出血とされた。
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