1801年 – 1848年
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「ペンザンス」の記事における「1801年 – 1848年」の解説
19世紀が始まった1801年の時点で、町の人口は2,248人であった。10年ごとに行われる人口調査では、1861年に3,843人の最高を記録し、他のコーンウォール地方のほとんどと同様に以降19世紀中ずっと減少して、1901年に3,088人となった。 ヴィクトリアが1837年に即位したころ、ペンザンスは地域の中心としての地位を確立していた。王立コーンウォール地質学協会(英語版)が1814年にペンザンスに設立され、1817年頃に鉱山夫の安全突き棒の導入に責任を負うようになり、これが摂政王太子ジョージ4世の関心を惹いて資金提供者となった。 コーンウォールで最初の救難艇は1803年にペンザンス市民により購入されたが、運航し続けるための資金が不足したため1812年に売却された。埠頭は1812年に再度拡張され、ジョン・マシューズ (John Matthews) が1814年にイングランド南西部で初めてとなる、小さな乾ドックを開設した。セント・ジャスト・イン・ペンウィス(英語版)のニコラス・ホルマン (Nicholas Holman) は1840年に、彼の工場の支所を埠頭脇に設置した。これらの設備は、まもなく寄港数が増加していく蒸気船を支える上で重要であることがすぐに示されることになった。 ガス灯が1830年に導入され、古い市場の建物は1836年に解体された。その置き換えとして、マーケット・ジュー通りの上に1838年にブリストルのW.ハリス設計による建物が建設された。マーケット・ジュー (Market Jew) という名前は、コーンウォール語で木曜日の市場を意味するMarghas Yowから来ている。現在はマラザイアン(英語版)に吸収された近くの村の名前で、マーケット・ジュー通りがそこへ通じていたのである。もう一つのペンザンスのスカイラインの主な特徴である、セント・メアリー教会は1836年に完成した。ローマカトリックの教会は1843年に建設されている。この時期からの建物としては他に、チャペル通りに1830年に建設された奇抜なエジプティアン・ハウス (Egyptian House) がある。海岸に沿ったプロムナードの最初の部分は1844年からのものである。
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