1700年-1900年
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「オルレアン」の記事における「1700年-1900年」の解説
フランスが北アメリカを植民地化した時代、征服した領土は広大で、ミシシッピ川(最初のヨーロッパ名は、コルベール[要曖昧さ回避]川といった)流域全体、カナダとの国境地帯にあったその源流から河口までを含んでいた。中心地は、ルイ15世の摂政であったオルレアン公フィリップ2世にちなみ、「ラ・ヌーヴェル-オルレアン」(ニューオーリンズ。仏: La Nouvelle-Orléans、フランス語発音: [lanuvɛlɔrleɑ̃] ラヌヴェロルレアン)と名付けられた。ヌーヴェル・オルレアンには、北東からのイギリス軍の脅威に対抗し、8000人のフランス人とケイジャン人が移住した。 代々のオルレアン公は、王の兄弟やいとこであり、宮廷で要職に就いたため、領地へ出向くことは難しく、所領内の都市を訪問することは希であった。公式にはオルレアン公の居城はブロワ城であった。オルレアン公国は、アルパジョン、シャルトル、ヴァンドーム、ブロワ、ヴィエルゾン、モンタルジなどを含み、フランスの諸公国の中でも最大のものであった。公爵の法定推定相続人は、シャルトル公の称号を名乗った。偉大な諸家からの相続と結婚による同盟により、オルレアン公は資産を蓄積していった。フランス革命で処刑されたオルレアン公ルイ・フィリップ2世(フィリップ・エガリテ)は、当時世界一の富豪とされたこともあった。彼の嫡男で後の七月王政(1830年 - 1848年)でフランス王となったルイ・フィリップは、パンティエーヴル公家出身の母ルイーズ・マリー・パンティエーヴル(マドモワゼル・ド・パンティエーヴル、エガリテ未亡人)の資産と、断絶したコンデ公家の資産とを相続した。 1852年、パリ=オルレアン鉄道会社ができ、有名なオルセー駅がパリにできた。1870年の普仏戦争では、その地理条件のために再度戦略の要所となり、10月13日からプロイセン軍がオルレアンを占領した。ロワール軍が将軍ルイ・ドルル・ド・パラディヌのもと結成され、オルレアンから遠くないボース地方を本拠地とした。
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