15年にわたる日本での生活
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「泣きながら生きて」の記事における「15年にわたる日本での生活」の解説
1989年(平成元年) 中国人相手の日本語学校飛鳥学院阿寒校に入学するため35歳で来日。 1996年(平成8年) 丁尚彪は自身の大学入学をあきらめ、有名大学進学の夢を中国屈指の名門復旦大学付属高校に通う一人娘に託した。 昼間の工場勤務、夜間の中華レストランでのアルバイトをしながら働き、稼いだお金を中国の家族に送金した。 独学で日本語を学び、仕事に困らないように、フォークリフト運転者、クレーン運転士等の資格を取得した。 丁尚彪の妻は中国で働き、丁尚彪からの送金には手をつけず娘の大学留学資金に貯めた。 1997年(平成9年) 娘が名門ニューヨーク州立大学に合格、産婦人科医師になるため留学する。 東京経由ニューヨーク行きの飛行機で来日した娘は8年ぶりに父と再会した。 2002年(平成14年) 妻の12回目の申請で査証がおりたのでニューヨークの娘に会いに行く。 上海発東京経由ニューヨーク行きの飛行機で来日した妻は13年ぶりに夫と再会した。 72時間のトランジットを使い浅草寺など東京観光をした。 2004年(平成16年) 丁尚彪は中国に帰国した。それは15年住んだ日本に二度と入国できないことも意味する。帰りの飛行機の中で彼は号泣していた。 娘はアメリカの病院に勤務しながら勉強を続け大学を卒業、医学博士となった。
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