1453年から1699年
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「オルレアン」の記事における「1453年から1699年」の解説
百年戦争が終わると、オルレアンはかつての繁栄を取り戻した。商人が市を出入りすることから、橋は市に使用料と税金をもたらした。ルイ11世はオルレアン周辺地域の農業を活性化し(特にボース周辺のことのほか肥沃な土地)、ピティヴィエでサフラン栽培を軌道に乗せて、オルレアンの繁栄に多大な貢献をした。後のルネサンス時代、ロワール渓谷沿いを旅する裕福な大邸宅主のために流行の先端を行く地となったことで、利益を得た(この流行を創り出したのは王自身で、近隣の王領であるシャンボール、アンボワーズ、ブロワ、シュノンソー城も含まれた)。 オルレアン大学も、市の地位を高めるのに貢献した。法学が専門であり、ヨーロッパ諸国中でも高く評価されていた。ジャン・カルヴァンはオルレアン大学で教育を受け、大学に便宜をはかってもらっていた(大学で自身の宗教改革著作の一部を執筆した)。イングランド王ヘンリー8世(ローマと断絶することによって、カルヴァンの著作に影響を与えた)は、返礼として大学に奨学金資金を申し出た。また、多くのプロテスタントらがオルレアンに身を潜めていた。筆名モリエールで有名なジャン=バティスト・ポケランもオルレアン大学で法学を学んだが、大学規則に反しカーニヴァルに参加したために放逐された。 1560年12月13日から1561年1月31日にかけ、オルレアンで三部会が開かれた。これは当時のフランス王フランソワ2世がオルレアンのオテル・グロスロで1560年12月5日に死んだためで、当時そばには王妃メアリー・ステュワートがいた。 オルレアン大聖堂は数回再建されている。現在の建物は、アンリ4世が最初の石を据えたもので、19世紀に完成した。ゴシック様式とネオゴシック様式の混合であり、フランスで最後に建てられた大聖堂の1つである。
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