サマセット公とは? わかりやすく解説

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サマセット公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 16:35 UTC 版)

サマセット公: Duke of Somerset)は、イングランド貴族公爵位。爵位名はサマセットに由来する。


注釈

  1. ^ この年の9月9日にはサマセット侯に、9月29日にはドーセット侯に叙せられている。だが政権がランカスター朝に移った1399年には当時の国王で異母兄に当たるヘンリー4世によって侯位は無効とされている。
  2. ^ その後清教徒革命イングランド内戦期に、当時の国王チャールズ1世がチャールズ・サマセットの子孫であるウスター侯エドワード・サマセットにアイルランド軍の支援の代償としてサマセット公への復帰を約束している。しかし1649年にチャールズ1世が処刑、イングランドが共和制に移行するとエドワード自身が国外追放になるのでそれどころではなくなり、1660年王政復古と共に帰国したエドワードはチャールズ1世の息子チャールズ2世に約束の履行を求めたが、貴族院に拒絶されサマセット公への復帰は果たされなかった。但し、22年後の1682年にエドワードの息子のヘンリー・サマセットがチャールズ2世にボーフォート公に叙爵され、子孫はボーフォート公家として続いていった。
  3. ^ 彼は「フェルディ」の名で知られており、リチャード・サースフィールド大尉という偽名で義勇兵としてガリバルディと共に戦っている。後に家政婦のロジーナ・スワンと恋に落ち、2人の子供をもうけてすぐに亡くなった。もしフェルディとロジーナが正式に結婚していれば、サマセット公の称号継承権はフェルディの子ハロルド(1869年 - 1927年)のものだったので、一時期ハロルドは両親が結婚していたことを証明しようとしたが結局失敗し、爵位の継承はできなかった。ハロルドの子孫は現在でもサマセット公爵位の継承権を主張している[37]
  4. ^ しかしこの際にさらにさかのぼっての分流である第7代ハートフォード侯爵ジョージ・シーモア英語版が16代公エドワードの曽祖父フランシスとその妻とされるレオノーラは正規の結婚関係になかったと主張した。つまりエドワードは庶子の子孫であるのでサマセット公爵位の継承権がなく、真の第16代サマセット公爵は自分であるという主張であった。この論争と調査は長く続き、貴族院にも持ち込まれたが、2年後にハートフォード侯の主張は退けられ、16代公エドワードの継承が確定した[40]

出典

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  40. ^ 森護 1987, p. 80-82.
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「サマセット公」の続きの解説一覧

サマセット公 (1808-1885)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 01:31 UTC 版)

サマセット・ハウス (パーク・レーン)」の記事における「サマセット公 (1808-1885)」の解説

11代公は邸宅を「サマセット・ハウス」と改称した。後にジョック・コルビル は、その著作で、「既にその名前が付けられた、より素敵で瀟洒な邸宅があったため、『彼の無遠慮な影』(shade presumptuous of him) である。」と述べている :19 。その邸宅ロンドンにおける3番目の「サマセット・ハウスとなった :127 。 サマセット公は邸宅増築したかったが、南側拡張するとキャメルフォード・ハウスが邪魔になるため、そこに住んでいた初代グレンヴィル男爵交渉したところ、うまくいかなかった。そこで1810年、サマセット公は邸宅厩舎の間にある中庭建物建てることについて、地主である第2代グローヴナー伯爵 (英語版) と話した。しかし、中庭法的取り扱いについて疑義があり、また、その増築によってヘレフォード・ストリートが暗くなる考えてグローヴナー伯爵認めなかった 。 1813年、サマセット公は妻について、弟のウェッブ・ジョン・シーモアに、「シャーロットタイム生け垣の上を飛ぶのように忙しい。彼女は一つ職業のようにその家へ手を入れ、古いものを好むようだ。」と語った :1091819年、サマセット公は再び中庭への建設考えグレンヴィル男爵グローヴナー伯爵との交渉の後、キャメルフォード・ハウスのライブラリーの窓の近くまで、2階建ての短い増築部が建てられた。1821年あるいはその翌年には、北側1階建て玄関回廊追加された 。 サマセット公の最初の妻1827年サマセット・ハウス亡くなり1855年には彼が亡くなったその後彼の2番目の妻が、亡くなる1880年までその家にいた。 第12代サマセット公エドワード・シーモア (英語版) はウィリアム・キュービット・カンパニー社 に委託して邸宅修復行ったが、1885年に彼が死去した後は、数年間空き家だった 。 第12代公は「パーク・レーン40番 (40, Park Lane )」という住所名を使用していた :531 。彼はサマセット・ハウスを娘のハーマイオニー・グラハムに遺し、彼女は1888年未亡人となった1890年ハーマイオニーと息子の第4代準男爵ロバート・グラハム (英語版) は、サマセット・ハウススミス・エルダー・アンド・カンパニー社 の社長ジョージ・マレー・スミス (英語版) に売却した :318

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