黄檗宗開教以降
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これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。 隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。 隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。 萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664年)9月に後席は弟子の木庵性瑫に移譲し、松隠堂に退いた。 松隠堂に退隠後、82歳を迎えた寛文13年(1673年)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月になり、体調がますます衰え、4月2日には[要出典]後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。翌3日に遺偈を認めて示寂。世寿82歳。
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