黄檗宗に改宗以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:32 UTC 版)
「慈雲院 (弘前市)」の記事における「黄檗宗に改宗以降」の解説
国立史料館の「享和三年寺社領分限帳」(1803年)によると津軽信寿治世中の享保10年(1725年)に黄檗宗寺院を弘前城下に建立することになり、当時、既に廃寺になっていた長勝寺末の当院を黄檗宗に改宗させて建立したとある。 「新選陸奥国誌」では万福寺末で開山を秀国、開基を南宗とする。 「葛西彦六日記」では文化9年8月(1812年)に当院において富籤が行われたが、これを「日本歴史地名大系第2巻」では津軽藩での富籤の初めと推測している。 明治10年(1877年)に兼松三郎が埋葬される。明治以降は衰退して、大正4年(1915年)に青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)の校地拡張により、廃寺、消滅する。 兼松の墓碑は長勝寺に移された。
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