鴨居、敷居の桶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 00:57 UTC 版)
なお、画像18の現在なら鴨居に相当する部分は現在と同じように鴨居に掘る場合もあるが、掘るのではなく、十輪院の本堂では内法長押に桶端、つまり土手になる部分を打ち付けたり、あるいは慈照寺東求堂(とうぐどう)では鴨居に桶端を打ち付けたりして掘る手間を避けている。 先に平安時代から鎌倉時代には桶は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来、そのため法隆寺・聖霊院などでは遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋めると書いたが、同じ聖霊院の子持でない明障子は画像20のように桶は明障子と同じ幅だが、閉じたときに隙間が出来ないように縦框の溝より上の部分の見込みが明障子二枚の二つの桶の土手分を埋めるようにそこだけ幅広に作ってある。この外側は夜間は蔀で塞がれる。 なお、画像20の明障子の桟は現在のショウジの桟とは見付けも見込みも全く違い、格子の桟とほとんど変わらない。これがかつての明障子である。ただし、明障子の縦框は古いもののようだが、敷居と明障子の桟は平鉋掛けで室町後期以降の修理である。建具は傷みが早く、鎌倉時代のものが残るのは極めて希である。法隆寺・聖霊院には側面には鎌倉時代や南北朝時代の建具、具体的には蔀が残るが、この正面の明障子の外側の蔀は江戸時代元禄4年(1691年)の制作である。
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