魏王假
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/19 14:21 UTC 版)
魏王 魏假 | |
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魏 | |
第6代王 | |
王朝 | 魏 |
在位期間 | 前227年 - 前225年 |
都城 | 大梁 |
姓・諱 | 魏假 |
父 | 景湣王 |
魏王假(ぎおう か、? - 紀元前225年)は、中国戦国時代の魏の第8代(最後の)君主(在位:紀元前227年 - 紀元前225年)。王としては第6代。姓は姫、氏は魏、諱は假。景湣王の子。
生涯
景湣王15年(紀元前228年)、父の景湣王が死去し、太子の假が即位した。
魏王假3年(紀元前225年)、秦の王賁が魏を攻めた。王賁は魏の首都大梁を包囲し、黄河の水を引いて水攻めにした。3か月後、大梁の城壁は崩壊し、魏王假は秦軍に降伏して魏は滅亡した(魏攻略)。魏王假は投降後、秦に処刑された[1]。魏の諸公子も皆殺しにされたと伝わるが[2]、後に魏王を名乗る魏咎・魏豹は魏王室の後裔である。
逸話
秦は魏を滅ぼし、魏の諸公子を皆殺しにしたが、一人の公子だけは見つけられなかった。そこで秦は魏国内に、「公子を見つけた者には金千鎰を賜う。これを匿う者は族滅に至る」という布告を出した。
その公子は乳母に連れられて逃亡していたが、魏の旧臣が乳母を確認すると、「公子はどこにいる?それを言えば千金を得ることができ、知っていて言わなければ一族は根絶やしになるぞ」と言った。乳母は「私はそれを知っていても、申し上げることはできません」と返した。旧臣は「魏は既に敗れ、公族は滅びた。今更公子を匿って誰のためになるというのか」と問い詰めると、乳母は嘆息して言った。
「利によって主君を裏切る者は逆賊であり、死を恐れて義を捨てる者は乱臣です。今、逆賊乱臣となって利を求めることなど、私は致しません。そもそも人の子を養うのは、生かすためであって殺すためではありません。どうして賞を求め、刑罰を恐れるがゆえに正義を捨てて逆節に走れましょうか。私に命がある間は、公子様を捕えることなど断じてさせません」
乳母は公子と共に深い沼沢に逃れると、旧臣はこれを秦軍に告発した。秦軍は追跡して矢を放つと、乳母は身をもって公子を覆い、数十本の矢を受けて公子と共に亡くなった。秦王政はこれを聞いて、乳母が忠義を貫いて死んだことを貴び、卿の礼をもって葬り、太牢をもって祀り、その兄を五大夫として金百鎰を下賜した。
乳母は、頌に曰く、「秦が魏を滅ぼし、その子孫を捕えんとした時、公子の乳母はともに逃げ、節を守り、利のために背かず、ついに死をも顧みず、名は後世に残った」と讃えられている[2]。
脚注
参考文献
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