魏玄同
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魏 玄同(ぎ げんどう、617年 - 689年)は、唐代の官僚・政治家。字は和初。本貫は趙州鼓城県[1][2]。
経歴
濮陽県令の魏乂の子として生まれた[3]。進士に及第し、長安県令に任じられた。司列大夫に累進した。上官儀の文章に連名したことから罪に問われ、嶺南に配流された。上元初年、帰還を赦された。工部尚書の劉審礼に時務の才ありと推薦されて、岐州長史に任じられた。吏部侍郎に累進した。玄同は官吏の選挙の事務を任され、賢人を任用しつくせないことを恐れて上疏したが、聞き入れられなかった[4][5]。
永淳元年(682年)、中書門下同承受進止平章事(宰相)となった。弘道元年(683年)、玄同は文昌左丞(尚書左丞)に転じ、地官尚書・同中書門下三品を兼ねた。武則天が臨朝称制すると、玄同は知政事(宰相)のまま、太中大夫・鸞台侍郎に転じた。垂拱3年(687年)、銀青光禄大夫の位を加えられ、検校納言となり、鉅鹿県男に封じられた。玄同は裴炎と仲が良く、終生の友情を保ったので、当時の人は「耐久朋」と呼んだ。しかし酷吏の周興と合わなかった。永昌元年(689年)、玄同が「太后は老いたので、皇嗣を復位させるべきだ」と述べたと周興に誣告された。武則天はこれを聞いて激怒し、家で死を賜った。享年は73[6][5]。
子女
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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