魏璠
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魏 璠(ぎ はん、生没年不詳)は、金朝およびモンゴル帝国仕えた漢人官僚の一人。字は邦彦。弘州順聖県の出身。
生涯
魏璠はもと金朝に使えた人物で、1215年(乙亥/貞祐3年)の科挙で進士となり、尚書省令史に任ぜられた。金の宣宗によって取り立てられたものの、中央の将相を批判し、隴右の完顔胡斜虎に協力を求めるべきであると論じたため、これを疎んだ大臣によって魏璠の言は取り上げられなかった。後に完顔胡斜虎が朝廷を来援しようとして果たせなかった時、宣宗は魏璠の言を採り入れなかったことを悔やんだという[1]。
1232年(壬辰/天興元年)末、モンゴル軍に追い詰められた金の哀宗が首都の開封府を棄てて逃走すると、五垜山に駐屯する武仙に助けを求めるべく魏璠が派遣された。ところが武仙は既に柳河の戦いで敗走しており、魏璠は四散した兵を集めて留山に逃れた武仙の下に合流した。1233年(癸巳/天興2年)正月、魏璠は武仙に哀宗救援のため早く出立するよう要請したが、かねてより魏璠が自らの軍団を奪おうとしているのではないかと疑っていた武仙はこれに反発し、配下の者に魏璠を殺させようと図った。そこで魏璠は武仙の下を去ったが、既に哀宗は逃れた先の蔡州でモンゴル軍に包囲されており、蔡州の戦いで哀宗・末帝が殺されたことにより金朝は滅亡した[2]。そのため魏璠は帰る先を失い、郷里に戻って隠居生活を送ることとなった[3]。
1250年(庚戌)、皇族のクビライが魏璠の名声を聞いてこれを招き、カラコルムに赴いた魏璠は名士60人余りを推薦したという。その後、カラコルムに滞在中に病によって70歳にして亡くなった[4]。
魏璠には子がいなかったため、従孫の魏初が後継者とされた。
脚注
- ^ 『元史』巻164列伝51魏初伝,「魏初字大初、弘州順聖人。従祖璠、金貞祐三年進士、補尚書省令史。金宣宗求直言、璠首論将相非人、及不当立徳陵事、疏奏、不報。後復上言『国勢危逼、四方未聞有勤王之挙、隴右地険食足、其帥完顔胡斜虎亦可委仗、宜遣人往論大計』。大臣不悦而止。閲数月、胡斜虎兵来援、已無及、金主悔焉」
- ^ 『金史』巻118列伝56武仙伝,「是時、哀宗走帰徳、遣翰林修撰魏璠間道召仙。行至裕州、会仙敗于柳河、璠矯詔招集潰軍以待仙、仙疑璠図己。二年正月、仙閲兵、選鋒尚十万、璠曰『主上旦夕西首望公、公不宜久留于此』。仙怒、幾殺璠。璠及忽魯剌還帰徳、仙乃奏請誅璠、哀宗不聴、以璠為帰徳元帥府経歴官。璠字邦彦、順聖人、貞祐二年進士云」
- ^ 『元史』巻164列伝51魏初伝,「金将武仙軍次五垜山不進。求使仙者、或薦璠、即授朝列大夫・翰林修撰、給騎四人以従。至則仙已遁去、部曲亦多散亡、璠撫循招集、得数千人、推其中材勇者為帥長、仍制符印予之、以矯制自劾、金主謂其処置得宜。継聞仙率餘衆保留山、璠直趣仙所宣諭之。或讒于仙、謂璠欲奪其軍、仙怒、命士抜刃若欲鏦璠然、且引一吏与璠辨。璠不為動、大言曰『王人雖微、序于諸侯之上、将軍縦不加礼、奈何聴讒邪之言、欲以小吏置対耶。且将軍跳山谷、而左右無異心者、以天子大臣故也、苟不知尊天子、安知麾下無如将軍者。不然、吾有死、無辱命』。仙不能屈。璠復激使進兵、不応、比還、金主已遷帰徳、復遷蔡州。金亡、璠無所帰、乃北還郷里」
- ^ 『元史』巻164列伝51魏初伝,「庚戌歳、世祖居潜邸、聞璠名、徴至和林、訪以当世之務。璠条陳便宜三十餘事、挙名士六十餘人以対、世祖嘉納、後多采用焉。以疾卒于和林、年七十、賜諡靖粛」
参考文献
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