張徳輝 (元)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 14:00 UTC 版)
張 徳輝(ちょう とくき、1196年 - 1275年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人の一人。字は耀卿。太原府交城県の出身。
概要
張徳輝は幼いころより学問に励み、金末の貞祐年間に御史台の官吏となった人物であった。このころ、盗賊と疑われて捕まった僧侶が冤罪であると気づき、本当の盗賊を捕らえるに至ったとの逸話がある。金朝の滅亡後は黄河の北に渡り、漢人世侯の史天沢に保護された[1]。そこで、史天沢の統治する真定路の経歴官に任じられている[1]。1235年(乙未)、史天沢に従って第一次南宋侵攻に加わり、処刑される所であった逃亡兵を穴城への配備に変えたことや、光山県の農民を説得して降らせるといった功績を挙げている[2]。
1247年(丁未)には皇族のクビライに招きだされ、儒臣の有用性を訴える応対が気に入られて魏璠・元好問・李冶らとともにクビライに仕えることとなった[1][3]。1248年(戊申)には孔子廟についての下問に答え、また皇族のクウン・ブカのような賢者を重用すべきであると述べたという[4]。また同年夏には白文挙・鄭顕之・趙元徳・李進之・高鳴・李槃・李濤らをクビライに推薦している[1]。1252年(壬子)には元好問とともにクビライに儒教大宗師の称号をおくり、この時に真定路の学校を提調するよう命じられている[1][5]。
1260年(中統元年)、クビライが即位すると河東南北路宣撫使に任じられ[6]、河東一帯の民生の安定に尽力した[7]。このころ、西川都元帥のネウリンが四川方面において兵権を握っており、鳳翔府の屯田兵800名を徴発して屯田地に返さないことが問題となっていた。張徳輝はこれをクビライに訴え出て、彼らを民に帰すことに成功している[8]。
1261年(中統2年)には十路の中で最も優秀な成績を残したとしてクビライに評価されたが、恐らくは張徳輝の剛腕に反発した者たちの反撃を受けて罷免されるに至った[7][9]。
1266年(至元3年)秋には参議中書省事となり、1268年(至元5年)春には設立直後の御史台の侍御史に任命されたが、辞退してこれを受けなかった[10]。しかしその後もクビライは張徳輝に御史台の条例について議論させようとしたが、張徳輝は「御史は法を執り行う官でありながら、法令は未だ明らかになっておりませんのに、何を根拠に行えば良いのでしょうか。このことは簡単な問題でないことを、陛下には熟慮いただきたいと思います」と述べたという[10]。その後、クビライは張徳輝を再び召し出して「朕は御史台のことについて熟慮した。卿は御史台の執行に努めよ」と述べたところ、張徳輝は「必ず御史台の職務を実行しなければならないと欲されるのであれば、まず皇族・外戚を糾弾する機関として正府を立てることを乞います」と答えた。これを受けてクビライは「そのことは急がず実行せよ」と述べ、後にはモンゴル人の裁判・訴訟を掌る「大宗正府」という官署が設置されるに至った。結局、張徳輝は老齢を理由に御史台に入ることはなかったが、烏古倫貞・李謙・魏初ら20人を御史台の官として推薦した[11]。なお、張徳輝が推薦した者達は、かつて張徳輝が仕えていた史天沢の幕客であった者が多かった[12][13]。
張徳輝が赴任する以前、河東は官吏が苛酷な収奪を行い、また色目人が高利の金貸しを行うことで民が逃げ出す状態にあった[14]。張徳輝はこの問題を史天沢の配下であったころから重視しており、モンゴルに仕えてからはこの弊害を取り除くのに尽力した[15]。張徳輝は剛直な人柄で知られ、みだりに喜び笑わなかったという。元好問・李冶らとともに「龍山三老」と呼ばれ、亡くなった時は80歳であった[16]。
脚注
- ^ a b c d e 牧野 2012, p. 361.
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「張徳輝字耀卿、冀寧交城人。少力学、数挙于郷。金貞祐間兵興、家業殆尽、試掾御史台。会盗殺卜者、有司蹤跡之、獲僧匿一婦人、搒掠誣服、獄具、徳輝疑其冤、其後果得盗。趙秉文・楊慥咸器其材。金亡、北渡、史天沢開府真定、辟為経歴官。歳乙未、従天沢南征、籌画調発、多出徳輝。天沢将誅逃兵、徳輝救止、配令穴城。光州光山農民為寨以自固、天沢議攻之、徳輝請招之降、全活甚衆」
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「歳丁未、世祖在潜邸、召見、問曰『孔子歿已久、今其性安在』。対曰『聖人与天地終始、無往不在。殿下能行聖人之道、性即在是矣』。又問『或云、遼以釈廃、金以儒亡、有諸』。対曰『遼事臣未周知、金季乃所親睹、宰執中雖用一二儒臣、餘皆武弁世爵、及論軍国大事、又不使預聞、大抵以儒進者三十之一、国之存亡、自有任其責者、儒何咎焉』。世祖然之。因問徳輝曰『祖宗法度具在、而未尽設施者甚多、将如之何』。徳輝指銀槃、喩曰『創業之主、如製此器、精選白金良匠、規而成之、畀付後人、伝之無窮。当求謹厚者司掌、乃永為宝用。否則不惟缺壊、亦恐有窃而去之者矣』。世祖良久曰『此正吾心所不忘也』。又訪中国人材、徳輝挙魏璠・元裕・李冶等二十餘人。又問『農家作労、何衣食之不贍』。徳輝対曰『農桑、天下之本、衣食之所従出者也。男耕女織、終歳勤苦、択其精者輸之官、餘麤悪者将以仰事俯育。而親民之吏復横斂以尽之、則民鮮有不凍餒者矣』」
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「歳戊申春、釈奠、致胙于世祖、世祖曰『孔子廟食之礼何如』。対曰『孔子為万代王者師、有国者尊之、則厳其廟貌、修其時祀、其崇与否、於聖人無所損益、但以此見時君崇儒重道之意何如耳』。世祖曰『今而後、此礼勿廃』。世祖又問『典兵与宰民者、為害孰甚』。対曰『軍無紀律、縦使残暴、害固非軽、若宰民者、頭会箕斂以毒天下、使祖宗之民如蹈水火、為害尤甚』。世祖黙然、曰『然則奈何』。対曰『莫若更遣族人之賢如口温不花者、使掌兵権、勲旧則如忽都虎者、使主民政、若此、則天下均受賜矣』」
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「是年夏、徳輝得告、将還、更薦白文挙・鄭顕之・趙元徳・李進之・高鳴・李槃・李濤数人。陛辞、又陳先務七事、敦孝友・択人才・察下情・貴兼聴・親君子・信賞罰・節財用。世祖以字呼之、賜坐、錫賚優渥。有頃、奉旨教冑子孛羅等。壬子、徳輝与元裕北覲、請世祖為儒教大宗師、世祖悦而受之。因啓『累朝有旨蠲儒戸兵賦、乞令有司遵行』。従之。仍命徳輝提調真定学校」
- ^ 牧野 2012, p. 196.
- ^ a b 牧野 2012, p. 362.
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「世祖即位、起徳輝為河東南北路宣撫使、下車、撃豪強、黜贓吏、均賦役。耆耋不遠数千里来見、曰『六十年不復見此太平官府矣』。戴之若神明。西川帥紐璘重取兵千餘人、守吏畏其威、莫敢申理、隷鳳翔屯田者八百餘人、屯罷、兵不帰籍。会簽防戍兵、河中浮梁故有守卒、不以充数。悉条奏之、帝可其請。兵後孱民多依庇豪右、及有以身傭藉衣食、歳久掩為家奴、悉遣還之為民」
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「二年、考績為十路最。陛見、帝労之、命疏所急務、条四事、一曰厳保挙以取人材、二曰給俸禄以養廉能、三曰易世官而遷都邑、四曰正刑罰而勿屡赦。帝嘉納焉。遷東平路宣慰使、春旱、祷泰山而雨。東平賦夥獄繁、視河東相倍蓰、凡遇贓奸、悉窮之、不少貸。奏免遠輸豆粟二十万斛、和糶粟十万斛。宝合丁議賦繭絲、令民税而後輸。徳輝曰『是誣上以毒下也、且後期之責孰任之』。遂罷其事。孀婦馬氏、将鬻其女以代納逋賦、分己俸代償之、仍蠲其額」
- ^ a b 高橋 2007, pp. 19–20.
- ^ 高橋 2007, p. 34.
- ^ 高橋 2007, p. 35.
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「至元三年秋、参議中書省事。五年春、擢侍御史、辞不拝。有言沿辺将校冒代軍士・虚糜廩餉者、勅按之、奏曰『在昔将校、備嘗艱阻、与士卒同甘苦、今年少子弟襲爵、或以微労進用、豈知軍旅之事乎。致使朝廷遣使覆按、此省院素失約束耳。痛縄之、則人不自安、第易其部署、選武毅才略者任之、庶使軍政自新。又時委司憲者体究、庶革其弊』。有旨命徳輝議御史台条例、徳輝奏曰『御史、執法官。今法令未明、何拠而行。此事行之不易、陛下宜慎思之』。有頃、復召曰『朕慮之熟矣、卿当力行之』。対曰『必欲行之、乞立宗正府以正皇族、外戚得以糾弾、女謁毋令奏事、諸局承応人皆得究治』。帝良久曰『其徐行之』。徳輝請老、命挙任風憲者、疏烏古倫貞等二十人以聞」
- ^ 牧野 2012, p. 85.
- ^ 牧野 2012, p. 86.
- ^ 『元史』巻163列伝50張徳輝伝,「初、河東歉、請于朝、発常平貸之、並減其秋租有差。賦役不均、官吏並縁為姦、賦一徴十年、不勝其困苦、民率流亡。徳輝閲実戸編、均其等第、出納有法、数十年之弊一旦革去。徳輝天資剛直、博学有経済器、毅然不可犯、望之知為端人、然性不喜嬉笑。与元裕・李冶游封龍山、時人号為龍山三老云。卒年八十」
参考文献
- 張徳輝 (元)のページへのリンク