魏知古
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魏 知古(ぎ ちこ、647年 - 715年)は、唐代の官僚・政治家。本貫は深州陸沢県[1][2]。
経歴
その性格は品行方正で、若くして才能があるという評判があった。知古は弱冠にして進士に及第し、著作郎に累進し、修国史を兼ねた。長安年間、鳳閣舎人・衛尉寺少卿を歴任した。安国相王李旦の下で検校相王府司馬を兼ねた。神龍元年(705年)、修国史を兼ねたまま、吏部侍郎に抜擢された。ほどなく銀青光禄大夫に位を進めた。神龍2年(706年)、母が死去すると、知古は辞職して喪に服した。喪が明けると、知古は晋州刺史に任じられた。景雲元年(710年)、睿宗(李旦)が重祚すると、知古は故吏として召し出され、黄門侍郎に任じられ、修国史を兼ねた[1][2]。
景雲2年(711年)、右散騎常侍の位を受けた。睿宗の娘の金仙公主と玉真公主が出家するため、それぞれ金仙観・玉真観を造営することとなった。知古は上疏してこれを諫めたが、聞き入れられなかった。ほどなく再び諫めて、睿宗にその懇切率直さを嘉された[3][4]。10月、同中書門下三品(宰相)に任じられた[5]。さらに知古は太子左庶子を兼ねた[6][7]。延和元年(712年)6月、同中書門下三品のまま戸部尚書に転じた[8]。
先天元年(同年)8月、侍中となった[8]。冬、知古は玄宗が渭川へ狩猟におもむくのに従い、詩を献じて諫めた。先天2年(713年)、梁国公に封じられた。竇懐貞らが反乱を計画すると、知古はこのことを玄宗に密奏した[6][7]。
開元元年(同年)、官名が改められると、知古は黄門監となった。開元2年(714年)、姚崇に忌避され、ひそかに讒言されて、工部尚書に任じられ、知政事(宰相)から罷免された[9][7]。開元3年(715年)1月甲辰、死去した[10]。享年は69。幽州都督の位を追贈された。諡は忠といった。文集7巻があった[9][7]。
子女
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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