高等教育への理想と結末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 22:58 UTC 版)
「福西志計子」の記事における「高等教育への理想と結末」の解説
福西は明治16年(1883年)にメアリー・リヨンの伝記に触れて強く影響を受けたとされている。当時、縫裁所を運営していた福西は、リヨンの大学創設に大きく勇気づけられ「あの人は女子でありながら大学を創設したのであるから、私にもそれができないはずはない」と志を高め、高梁の地に大学を設立させることを夢に見た。これを以降、福西の女子教育の理想は中等教育の質の上昇と高等教育の設置へと向けられる。のち福西は縫裁所を「縫裁科」とした上で文学科を新設し、順正女学校へと改組させた。さらに女学校は福西死後の明治45年(1912年)に順正高等女学校を名乗る事になり、大正期においては他の高等教育機関に対し在校生のうち30%の進学率を叩き出す学校となっていった。 されど、結論として順正女学校そのものの高等教育課程設置は、福西が志半ばにして病に伏した事(1898年)と後の県営移管(1921年)において、中途半端な形となった。以降は教育界そのものが国体思想へ一直線となる中で福西が理想とした女子高等教育の敷設の道は絶たれ、昭和18年(1943年)には校名から順正の名も消されていく のち福西が教育の理想を掲げた頼久寺町・伊賀町に再び「順正」の名が掲げられるのは、戦後、昭和42年(1967年)に高梁市と加計学園グループ(加計勉)によって、高等教育課程を持つ学校として順正短期大学と順正高等看護専門学校が設立されるまで待つ事となった。なお、これらの学校の設立には高梁市に根付いた順正女学校の卒業生たちを中心に行われた市民運動が深くかかわっている。
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