高浜町政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 13:49 UTC 版)
「森山栄治 (地方公務員)」の記事における「高浜町政」の解説
森山が町行政に君臨していた頃について、日本共産党所属で1979年の初当選から高浜町議会議員を務めてきた渡邊孝によると、「30そこそこの自分が2位で当選できたのも、暗い雰囲気を変えてほしいという民意があったのでは」「人権団体を率いて、“差別をなくす糾弾活動”の名目で恐怖政治を敷き、高浜町民を手懐けていく、まさに暗黒町政の時代だった」と町の教育委員長にも選任されるなど退職後も影響力を保ったと伝えている。 柴野徹夫によると、「関西電力と直結した浜田倫三町長と森山助役が町行政に君臨して私利私欲をむさぼり、批判者には脅迫と報復で報いた」という。また、実質的なボスは森山助役で、京都で味をしめた経験を活かし、大飯郡高浜町西三松の自宅に部落解放同盟高浜支部を組織して誰彼容赦なく糾弾を繰り返した結果、町議会も町長と助役の脅迫に屈し、その"親衛隊"になりさがった、という。 10年にわたり高浜町の助役を務め、1985年に運転を開始した関西電力高浜原子力発電所3・4号機の誘致に尽力し、高浜町における原発産業の立役者となる。高浜町役場を退職したのちも、町の都市計画審議会の委員などを歴任するなど町の顔として活動し、コードネーム「M」として、国会議員や県議会議員との人脈や、関西電力との関係などから隠然たる勢力を保った。 しんぶん赤旗によると、1978年の高浜発電所第3号機及び第4号機増設計画の建設協力金は9億円とされたが、助役時代の森山が落とした手帳には24億円を受けとったと記されていたという。 1982年から1987年まで町長を務めた田中通元町長は、助役時代の森山につきその仕事ぶりから「やり手」と評し、「どちらが町長でどちらが助役なのかわからないという話もあった」とし、原発関係は助役や企画課長が担当しており、町長は深い政治には関わらず、関西電力の担当者とも天気の話くらいしかしなかったと、当時のことを回想した。部下には「相手のことを考えて仕事をしろ」と訓示を垂れ、町議会の答弁で課長らが詰まると、代わりに答えるなどし、部下の叱責後のフォローも欠かさなかった。また、役場内では恐れられ、名前を必要以上に呼ばないよう配慮されていたという。
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