高校・渡米・大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:47 UTC 版)
日大藤沢高校では1年生時からレギュラーで4番を務めるほどの実力があったが、体育会系部活にありがちな上下関係に対する嫌悪感や、家庭内でも両親が離婚するなど多くの問題を抱えていた。そのことから自律神経失調症を患い、不登校→留年→退学となる。留年後の学業では留年したことから野球部に戻れないこともあり、16歳から18歳まで野球をしないで過ごす。 高校を中退後、10代で渡米。地元の高校入学を目指したものの、留学斡旋の会社に騙され入学は許可されず、語学学校に通いながらバッティングセンターに通う日々を送る。バッティングセンターのオーナーから大学の監督を紹介されたり、オープントライアウトでスカウトの目に留まるが、学生ビザが切れたため、高卒の資格を取得するため日本に戻る決心をする。 帰国後、東京都立新宿山吹高等学校(単位制)に入学。同高校卒業後、1996年に指定校推薦で法政大学法学部に進学すると同時に、法政大学野球部に入部。東京六大学野球リーグでは主に代打で活躍する。1998年には、東京六大学野球春季リーグ戦・対慶應義塾大学1回戦で史上2人目の代打逆転サヨナラホームランを放つ。
※この「高校・渡米・大学時代」の解説は、「根鈴雄次」の解説の一部です。
「高校・渡米・大学時代」を含む「根鈴雄次」の記事については、「根鈴雄次」の概要を参照ください。
- 高校渡米大学時代のページへのリンク