高山ダム建設と新生月ヶ瀬梅林
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「月ヶ瀬梅林」の記事における「高山ダム建設と新生月ヶ瀬梅林」の解説
1953年に当時の建設省から木津川総合開発計画が発表された。大阪平野を洪水から守るため、木津川支流に水量調節用のダムを建設する計画であった。この計画には名張川の高山ダムが含まれており、計画の実現は月ヶ瀬梅渓の水没を意味した。月ヶ瀬村では村を挙げての反対運動が行われ、奈良県やマスコミも声を上げたが、下流域の安全確保の大義の前にしてついに水没を回避することはできなかった。約10年間の交渉により梅林の復元と新生月ヶ瀬の再建を条件に高山ダムの建設工事は開始された。 高山ダムが完成すると約3800本の梅がダムの底に水没することになる。水没する梅林を補償するため、移植可能な古木を現在の月ヶ瀬尾山天神の森付近や月ヶ瀬嵩三山付近に移植した。また、月瀬村内各所に新たな梅林が設けられた。また、梅林を保護する立場である月ヶ瀬保勝会は戦中戦後の混乱から休眠状態に陥っていたが、新生月ヶ瀬梅林を盛り立てるために活動を再開した。 高山ダム工事中には、水没する前の月ヶ瀬の姿を一目見るために多くの観光客が押し寄せた。最盛期には1日当たり2 - 3万人の観光客で賑わった。ちょうど自家用車が普及し始めた時代であり、駐車場不足により中学校の校庭を駐車場に開放せざるを得ない状況であったという。 高山ダムは1969年に完成し、五月川の渓谷は月ヶ瀬湖に変貌した。渓谷が沈んだ後も月ヶ瀬梅渓保勝会や観光協会による梅林の管理保全、移植梅樹や幼木梅の育成が続けられている。また、月ヶ瀬梅林は1975年には奈良県立月ヶ瀬神野山自然公園の一部に指定された。名阪国道の開通や県道・広域農道の整備などにより交通事情が改善したこともあり、1988年には推定観光客10万人以上を見込める観光地となっている。今では月ヶ瀬湖の湖水と育成した梅樹が調和し、新生月ヶ瀬梅林が観光客の目を楽しませている。
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