飢えとチフスとは? わかりやすく解説

飢えとチフス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 17:05 UTC 版)

ダッハウ強制収容所」の記事における「飢えとチフス」の解説

戦争終結近付くにつれ、ダッハウ状況だんだんと悪化していった。連合軍ドイツに迫ると、ドイツ囚人解放阻止するため、前線近く強制収容所囚人内地収容所移しはじめ、ダッハウにも続々到着した食事が殆どあるいは全くない状況移送が終わると、囚人消耗して衰弱し半死半生となる者も珍しくなかった過重収容貧弱な衛生状態乏し食料そして囚人衰弱原因とするチフス蔓延深刻な問題となった前線から続く新たな移送で、収容所はすぐに囚人溢れかえり、衛生状態人間の尊厳守られる状況ではなくなっていた。1944年末から解放の日までに15,000人が死亡したが、その犠牲者の約半数ダッハウ強制収容所囚人であったロシア人捕虜500人は銃撃隊により処刑された。 1945年4月27日に、赤十字国際委員会代表のヴィクター・モーラーは収容所内に立ち入ることが許され食料配布した。同じ日の夕方囚人ブーヘンヴァルト強制収容所から到着した出発時は4,480人から4,800いたもの移送中に多く死亡し到着まで生き延びることができたのは800人だけであった。2,300体を越え遺体列車内やその周囲そのまま放置された。収容所最後所長エドゥアルト・ヴァイター親衛隊中佐(彼は1942年9月から1943年11月まで収容所所長だったマルティン・ヴァイス親衛隊中佐後任考えられている)は既に4月26日逃亡していた。 降伏前日1945年4月28日には収容所長官マルティン・ヴァイスを始めとして収容所守備隊職員多くダッハウ強制収容所離れていた。同日赤十字の代表ヴィクター・モーラーは、収容者集団脱走チフス流行周辺地域に広まることを懸念し収容所残ったヴァイス副官ヨハネス・オットー中尉に対して収容所放棄せずアメリカ軍到着するまで囚人を外に出さないために守備隊配置しておくように説得したが、オットーはそれに応じダッハウから逃亡した

※この「飢えとチフス」の解説は、「ダッハウ強制収容所」の解説の一部です。
「飢えとチフス」を含む「ダッハウ強制収容所」の記事については、「ダッハウ強制収容所」の概要を参照ください。

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Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのダッハウ強制収容所 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

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