非我の概念が有する霊魂的側面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 18:26 UTC 版)
「初期仏教」の記事における「非我の概念が有する霊魂的側面」の解説
当時のインド社会において、通俗的な一般的観念として、解脱とは霊魂が体から脱出して、束縛のない状態におもむくことであるとする見解があり、それはウパニシャッドからヴェーダーンタ学派に至るまで一貫して存していたとされる。あるとき、どうしたら身体から霊魂が解脱することができるでしょうか、と問われたゴータマは、解脱についてのその見解を受け入れ、怒りや怨恨を断ち、悪い欲求と貪りとを断ち切って、妄執を根こそぎ抉り出せば、身体から霊魂が解脱することができると答えたとされる。この場合のゴータマの見解では、霊魂と身体から人間存在はできており、解脱には身体から霊魂が脱け出るという面もあったことが記されている。 肉体に執着し、多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人のことを、「窟のうちにとどまっている」と表現しているが、これは、霊魂またはアートマンが身体の中に入ってとどまっている様を現わしているとされている。この考えはウパニシャドからきており、『アーパスタンバ法典』(第22章4)では、アートマンのことを「窟のうちにとどまる者」と呼んでいる。 迷妄にもとづいて起こる煩悩は何ら存在しなくなり、あらゆることがらについて智見があり、最後の身体をたもち、めでたい無上の悟りを得ること・・・これだけでも人のたましい(霊)は清らかとなるとされた。 また、涅槃についても、無我的な無余涅槃をしりぞけ、たましいの最上の境地としての有余の涅槃にとどまって、活動してゆくことが目的であるとしていたとされる。小乗仏教の伝統説では無余涅槃に入ることが修行の目的であったが、ゴータマは無余涅槃に入るという見解は偏見であるとして排斥した。「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとした。有余の涅槃だけでも人のたましい(霊)は清らかとなるけれども、その上に立って人類を救済してゆくことが、修行の目的であると考えていたようである。
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