電話、蓄音機、白熱電球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:03 UTC 版)
「トーマス・エジソン」の記事における「電話、蓄音機、白熱電球」の解説
1877年に蓄音機の実用化(商品化)で名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。後年の伝記ではこれを「集合天才(Collective Genius)」と呼んでいる。 研究所では電話、蓄音器(つまり録音・再生装置)、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。中でも注力したのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。彼は白熱電球の名称をゾロアスター教の光と英知の神、アフラ・マズダーから引用し、「マズダ」と名付けている。この特許の有効性について訴訟が起こり、裁判で特許(番号223,898)が有効と判定されるまでに時間がかかった。一方で白熱電球の売り込みのための合弁会社を設立し、直流の電力を供給するシステムを確立させる。 1887年にニュージャージー州のウェストオレンジ研究室に移る。ここでは動画撮影機キネトグラフを発明したと言われているが、実は部下のウィリアム・ディックソンの発明である。1893年には、ウエスト・オレンジ研究所の敷地内にアメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア(Edison's Black Maria)」を設立し、ウィリアム・ディックソン、ウィリアム・ハイセを監督に、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作し始めた。1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオ(Edison Manufacturing Company、のちにThomas A. Edison, Incと改名)を開き、約1,200本のフィルムを制作した。
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