雪見山の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 03:54 UTC 版)
江戸勧進相撲が初めて木版刷りの縦一枚番付を発行した1757年(宝暦7年)10月場所の東大関に雪見山の四股名が記載されている。宝暦7年10月場所以降江戸勧進相撲の番付が現在の日本相撲協会まで連綿と続いている。ただし、雪見山が大関として番付に載る前にも初代 谷風梶之助など、一部の力士が大関だったことが判明していることや、元々相撲興行は京・大坂が本場で番付自体も京で1699年(元禄12年)、大坂で1702年(元禄15年)のものから写本や板番付等の形式で宝暦7年以前に50場所分近く残されていることなどから、正式な初代大関だったわけではなく、あくまで江戸相撲における現存最古の番付を起点とした場合の見解に過ぎない。 大関を務めたのはこの場所限りで、そのあと一度番付から姿を消したが、まもなく関脇や前頭上位に名を現し、安永6年(1776年)4月の番付まで約20年にわたって最上段に名前がある。その間に関脇4場所、小結5場所を務めているところから判断すると、実力を兼ね備えていたので、安定した力士として活躍したと推測されている。 その点では、後に第4代横綱となる谷風梶之助も最初は看板大関からスタートしたのと類似した経歴であり、現在まで継続する番付の最初の大関力士として相応しい存在と考えられている。
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