隠居・戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:41 UTC 版)
同年、阿部家は内高(実際の収入石高)の少ない陸奥棚倉藩への転封が申し渡されたが、阿部家は引き伸ばし工作を行い、実施は翌慶応3年(1867年)1月までずれ込み、慶応4年(明治元年、1868年)2月に棚倉藩から白河藩への再封が幕府から言い渡されたのもつかの間、実行されないうちに戊辰戦争が勃発した。正外や阿部家は奥羽越列藩同盟と組んで明治新政府と戦ったが、前出の経緯から白河城と棚倉城の二城を守らねばならなくなった。5月1日に正静の守る白河城が新政府軍に落とされ、6月24日に正外らが籠城していた棚倉城も官軍に奪取され、残兵と正外らは保原の藩分領に逃走した。(白河口の戦い) 阿部家は保原陣屋にて新政府軍に降伏。藩領は10万石から6万石に減封。 明治20年(1887年)4月20日に東京で死去。享年59。
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