隊員数の増加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:20 UTC 版)
1933年1月30日にヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領からドイツ国首相に任命されてドイツの政権を掌握した。 日和見主義者達が保身から続々と入党していた ため、親衛隊も爆発的に隊員数を増やした。ナチ党が政権を掌握した頃には5万2000人だったのが、1933年末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、国防軍からはパレード専門の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた。またヒムラーは親衛隊名誉指導者制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった。 隊員数が急増した親衛隊は入隊基準をより厳しくするようになった。ヒトラーも「門戸をゆるくしてはならない。女共が惚れ惚れするような存在でなくてはならないのだ」と発言しているとおり、非常に厳しい入隊審査が行なわれた。1750年まで遡って本人の血統にユダヤ民族やスラブ民族の血が混入していないか調査を受け、北方人種の顔立ち(彫りが深く金髪碧眼、細く高い鼻、後部が突き出た頭蓋骨)と最低身長173cmの頑強な体格、先祖の病歴などを基準に選考された。そのため党幹部の中には親衛隊を閲兵する際シークレットブーツなどを履いた者もいたという。また、結婚も親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の許可無くすることは許されず、婚約者の血統、父方、母方に精神疾患歴がないか調査された。ヒムラーは数年以内に国家の主要ポストは金髪碧眼が占め、120年以内には全ドイツ国民が北方人種的な容姿になっていなければならないと考えていた。 旧来の隊員の中でもこれらの基準に照らして怪しい者はリストラの際に除隊対象となったため、隊員数の増加に歯止めがかかった。1933年末に20万9000人だった隊員数は、1939年の大戦開始時に25万人になっているにとどまる。リストラは徹底して行われ、1933年以前に親衛隊隊員だった者の90%は大戦までには除隊していた。
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