除夜の湯に肌触れあへり生くるべし
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評 言 |
「らい予防法」が1996年(平成8年)に廃止となり、2001年(平成13年)国は過去の隔離政策や偏見への謝罪をし、名誉回復や福祉増進、啓発事業に努めることを誓った。その時点で初めて多くの人は、苛酷な人生を歩んできた人々の実状を知るところとなった。 村越化石は1922年静岡県志太郡岡部町生まれ。夢多き少年時代にハンセン病に侵され、離郷を余儀なくされ1941年(昭和16年)草津の国立療養所栗生楽泉園に隔離入園させられた。この苦境のなかで俳句を始め、その後の作句活動で数々の賞を受賞されている。1970年(昭和45年)には失明し発病に次ぐ試練となったが、「俳句を学んできたお陰で見えないものまでみえるようになった」と述懐している。 ハンセン病の病原菌は新薬プロミン(現在ではリファンピシン、クロファジミンという薬品とならんで三剤を併用する多剤併用療法)で、ほぼ完全に治癒できるようになっているが、今なお実名を伏せ、帰る家の無い方々が多いという。 人の死をうらやみすする寒卵 物として寒の畳に座しゐたり 寒燈を消すとき母につながれり などの作品からは、絶望の底からの「うめくような叫び声」を読みとることが出来て辛い。掲句の「肌触れあへり」には、長い苦悩から解きほぐされた安堵感が溢れている。それが「除夜の湯」であればなおさらのこと。明日は新しい年を迎えるので共同浴場で体の隅々まで洗っているのかもしれない。 化石は、「林火忌のこの道行くに泉あり」と、恩師「大野林火」への深い思慕と、併せて俳句への感謝の気持ちを詠んでいる。 |
評 者 |
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備 考 |
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