阿速衛の設立と内乱における活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:10 UTC 版)
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モンケの死後、帝位継承戦争において末弟アリク・ブケを打倒したクビライは大都の建設に代表される新たな国家体制の整備を開始した。その中で行われたのが、既存の千人隊(ミンガン)、親衛隊(ケシクテイ) といった軍事組織から独立した、侍衛親軍の設置であった。大元ウルスにおける侍衛親軍はその名の通り歴代中号王朝で設置された侍衛制度を継承したものであるが、 アスト、キプチャク、カンクリといったいわゆる「色目人」によって構成される軍団を包括していた点に特色があった。アスト、キプチャク、カンクリといった西方出身の集団はモンゴル高原の諸部族に比べて「新参者」であり、地位は低いが「モンゴル人同士の内戦」において気兼ねなく戦えるという強みも有していた。1272年(至元9年)には初めてアス兵の徴集が行われてアス・バートル・ダルガチ(阿速抜都達魯花赤)が置かれ、1286年(至元23年)にはアスの軍(阿速之軍)の名が与えられた。 アスト、キプチャク兵が初めて活躍したのは1276年に始まる「シリギの乱」であり、このときアスト軍団長アダチは王族のヨブクルをトーラ川で破る功績を挙げている。また、「ナヤンの乱」においても同様に活躍している。クビライの死後、オルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)の治世にカイドゥによるモンゴル高原侵攻が激化すると、アスト・キプチャク・カンクリ諸衛は北方モンゴル高原に派遣されてカイドゥの軍勢と戦った。この時アスト等の衛を指揮したのがクビライの曾孫カイシャンで、カイシャンは諸将の人心を得てカイドゥ・ウルスを滅亡に追い込み、アスト・キプチャク・カンクリ諸衛の者達もまたカイシャンに強い忠誠心を懐くようになった。
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