関東地方北部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 05:14 UTC 版)
鳥羽・伏見の戦いの報が江戸に伝わった直後の1月15日、関東取締出役渋谷鷲郎が関東一帯の村々から公私領を問わずに農民を徴兵する決定を下した。このため、上野・下野・武蔵の3国で大規模な一揆が発生した。2月12日に武蔵・上野の農民が渋谷がいる岩鼻陣屋に向かって進撃した。これに驚いた渋谷は15日に命令を撤回した。ところが、その際に一部の村役人が徴兵の選定に際して不正があったとして下旬より三国の村々で村役人の追放などを訴える大規模な一揆へと発展した。特に上野では2月22日に多胡郡で起きた一揆は周辺を巻き込んで拡大し、吉井藩・七日市藩・小幡藩は次々と一揆軍に「降伏」した。3月10日には岩鼻陣屋も放棄され、羽生陣屋が新政府軍に落とされると、上野・北武蔵の一揆は最高潮に達し、上野では一揆の制圧下に置かれなかったのは高崎・前橋・伊勢崎の3藩のみであったとされている。3月末に安塚村(下都賀郡壬生町)、日光道中石橋宿で発生したといわれ、瞬く間に下野中央部の全域に広まった。積もり積もった不満が一気に噴出したものである。その頃、新政府の東山道軍が北関東に進出したが、3月11日諸藩に対して共同で一揆の取締を命じるとともに新政府軍もこれを支援する方針を立てた。この方針に従って鎮圧に当たった結果、3月末から4月にかけて一揆は沈静化に向かった。一揆鎮圧に新政府軍の支援を受けた北関東の諸藩は藩論を恭順にまとめることになる。
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