開通記念列車とは? わかりやすく解説

開通記念列車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:35 UTC 版)

オリエント急行」の記事における「開通記念列車」の解説

オリエント急行の開通記念列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(現・パリ東駅)を発車し6日かけてコンスタンティノープルイスタンブール)に到着した。なおオスマン帝国では首都市名を「イスタンブール」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先旧名表記されていた。 経路パリフランス) - シュトラスブルクドイツ帝国、現・ストラスブール) - ミュンヘン - ウィーンオーストリア=ハンガリー帝国) - ブダペスト - オルソヴァ(ルーマニア王国) - ブカレスト - ジュルジュ - ルセブルガリア公国) - ヴァルナ - コンスタンティノープルオスマン帝国)である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路全通しておらず、国際寝台車会社車両運行されたのはジュルジュまでで、ドナウ川を船で渡りルセ - ヴァルナ間はイギリス資本ブルガリア鉄道通常の客車利用ヴァルナ - コンスタンティノープル間は汽船黒海渡った記念列車寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼車掌車)2両の編成であった寝台車食堂車ボギー台車使用しており、国際寝台車会社創業時二軸車や三軸車からは大幅に乗り心地向上していた。 記念列車には沿線各国高官鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際寝台車会社幹部乗車した途中ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮招待するなど、沿線各国歓迎受けた招待客中にはアルザス出身パリ在住作家エドモン・アブー(en:Edmond François Valentin About)と、ロンドン・タイムズ紙のパリ支局長アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツ(en:Henri Blowitz)が含まれており、新列車は彼らの筆により西ヨーロッパ紹介された。ドブラヴィッツはさらに到着地イスタンブールでスルタンアブデュルハミト2世西ヨーロッパジャーナリストとしては初の単独会見成功している。

※この「開通記念列車」の解説は、「オリエント急行」の解説の一部です。
「開通記念列車」を含む「オリエント急行」の記事については、「オリエント急行」の概要を参照ください。

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