開設までの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:11 UTC 版)
「北海道旅客鉄道厚岸自動車営業所」の記事における「開設までの動き」の解説
標茶村(現:標茶町)と太田村(現:厚岸町太田)の間には1938年(昭和13年)に殖民軌道知安別線が敷かれたが、ほとんど使われず数年後には撤去された。標茶村と厚岸町を結ぶ道路(現:北海道道14号厚岸標茶線)は経済の中心が厚岸町から釧路市へ移行するに連れて重要性は低下していたが、太田村の開拓が進んだことから交通機関の整備が課題となっていた。標茶村、太田村、厚岸町の3町村は、かつて菱川線として鉄道建設が計画された厚岸駅 - 太田 - 標茶駅の間に省営自動車路線を誘致することを決め、1945年(昭和20年)11月20日に札幌鉄道局へ3町村長連名の陳情書を提出した。陳情運動は実を結び、1947年(昭和22年)12月27日に厚岸自動車区と同区標茶派出所が開設され、厚岸 - 太田 - 標茶間でトラックによる生活物資輸送が開始された。 標茶村の虹別地区は標茶市街地とを直接結ぶ交通はなく、殖民軌道で別海村(現:別海町)の西春別駅へ出て標津線に乗り換える不便を強いられていた。標茶村では1949年(昭和24年)10月に標茶駅 - 虹別 - 計根別駅間などでバスおよびトラック路線の陳情を開始。1952年(昭和27年)に釧根線標茶駅 - 西別駅(後の別海駅)間で試験運行が開始され、1953年(昭和28年)2月20日より正式運行となった。同年11月28日には標茶駅 - 標茶高校間の運行も開始した。 厚岸線は1950年(昭和25年)に厚岸駅 - 太田間で試験運行を開始し、翌1951年(昭和26年)12月12日に正式運行となった。標茶へは路線免許延長申請を太田 - 標茶 - 弟子屈で行っており、同時期に東邦交通(現:くしろバス)が釧路 - 標茶 - 弟子屈、標茶町の製材工場会社が標茶 - 弟子屈の申請を行ったため、標茶 - 弟子屈間が三者競願となり調整が図られた。遅れること約2年後の1953年(昭和28年)11月28日、太田 - 標茶駅が開業し当初目的であった厚岸 - 標茶間が全通した。標茶 - 弟子屈の免許は東邦交通(現:くしろバス)が取得した。
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